(一) プロローグ 本来、性別から言えば“彼”と呼ばれるべきその生物は、帝都<オーディン>郊外のフロイデン山地で生まれた。自分が蝶と呼ばれている存在であることなど、まるで意識していなかった。 また、自分が今、置かれている環境もまるで関心の外だった。この船が工作艦であり、それが、宇宙を、それも最も危険な人間の悪意が充満している“イゼルローン回廊”と呼ばれる宙域を航行していることなど、知ろうとも思わなかったし、知ったところで何も感じはしなかっただろう。 静かに羽を広げ、微かな空気の流れを受けてふわりと舞い上がる。羽ばたきを繰り返し、空気の流れに乗って右へ左へ気まぐれに飛び回る。 凄まじい轟音が周囲を満たしていた。傷ついた友軍の戦艦の修理のために要塞を離れた直後、この工作艦は自由惑星同盟軍の軽巡航艦に遭遇してしまったのだ。護衛についていた駆逐艦は必死に抵抗し、自らを犠牲に供して工作艦を脱出させたのだが、それでも巡航艦の放ったレーザー水爆ミサイルの一発は至近距離で炸裂、撒き散らした破片は工作艦の外壁を突き破るだけのエネルギーを余していたのだ。 空気が唸った。 ミサイルの破片が外壁を突き破り、無数の細片となって通路を飽和させたのだ。その中の一片が、まったくの偶然がはじき出したさいころの目に従って宙を切った。 「―――!」 たまたま通路に出ていた一人の技術士官が恐怖に目を瞠り、頭を抱えてフロアに突っ伏す。 気まぐれな空気の揺らぎが、気ままに舞い漂っていた蝶の羽を僅かに押し流す。 まるで、見えない糸に引っ張られたように、蝶がすいと横滑りした瞬間に、飛来したセラミックの破片が蝶を直撃した。 蝶がいなければ、また蝶を直撃しなければ逸れていたはずの破片が、まるで吸い寄せられるように方向を変え、突っ伏した技術士官の首筋に突き立った。 「エーリッヒ!」 帝国軍務省からの出頭命令書…別名徴兵カルテ…を手にした帝都第二工廠電装技術部職長のクロイツナハは舌打ちして、部下を呼んだ。 「何でしょう、職長?」 工廠に入ってまだ二年にならない若い技術者、というより工員のエーリッヒが不審気に振り向くのに、クロイツナハは手招きする。ベテランがどんどん前線へ送り込まれ、ついにはクロイツナハのようなロートル・クラスまでが徴兵カルテを受け取るようになる一方で、高等学校もろくに出たかどうか分からないような年頃の、エーリッヒのような若者が“技術者”の肩書きを背負って配属されてくる。 もっとも、エーリッヒはここ二、三年で最も見込みありと、クロイツナハ技師が目をかけている少年でもある。 「イゼルローンですか?」 徴兵カルテを見せられ、若いエーリッヒが息を呑む。 「ああ、ついてねぇが、しょうがない。工作艦が叛徒どもにやられて、イゼルローン工廠の技術士官クラスに大穴が開いちまったらしい。よりによって電装系の主任技術士官がもろにミサイルの破片を食らって串刺しにされちまったとよ」 ☆☆☆ 「―――ったく、人使いは荒いくせに、給料は上げない。それでいて物価は上がる一方じゃやってらんないよ」 呟き、エーリッヒは額の汗を拭いかけて不愉快そうに眉を顰めた。頭からつま先まで防塵用の白衣に包まれ、防護グラスと厚いマスクで顔を覆っていては汗を拭うのもままならない。額に薄く浮かんだ汗を意識して、許可を得て休憩室に向かうことも考えた。 「―――やめとこう」 もうすぐ正規の終業時間が終わって三時間が過ぎる。本日の残業は三時間までと職長に言い渡されている。自由惑星同盟とか名乗っている叛徒どもとの戦争が長引くに連れて、工廠の就業時間も延長に次ぐ延長を強いられている。しかも、前線の工廠や工作艦での戦没者を穴埋めするために次々に熟練者が引き抜かれ、増員はされても技術力はがた落ちになっている。予算の中で人件費は削られる一方だから、迂闊に休憩を申し出ると、あの職長は平気で言い出しかねない。 「休んだ分は給与から差し引いておく」 部屋の中は寒いくらいに空調され、本来はそんなに汗をかく環境ではない。 汗の原因は、目の前の計器の示す数値だった。 「おかしいな。どうして、こんなに出力がふらつくんだ?」 帝国暦四八七年末近く、帝都オーディン帝国軍工廠電子部品工場。 エーリッヒが取り組んでいるのは、超光速通信波発信素子のモジュールだった。彼の職務は、できあがった通信モジュールの出力試験。規定の出力が出ないモジュールなら、単純に不良品としてはねてしまえばいい。 就業時間間際になってラインから入ってきた最後のモジュールが彼を困惑させたのは、出力が定格を超えていることだった。それも定格から、時には定格出力の一〇倍というとんでもない数値を記録するのだ。こんな馬鹿な話はない。マニュアルでは、定格以下の出力なら即時廃棄になっているが、その逆の場合は記載されていないのだ。 「まあ、いいか。定格の出力は出てるんだし、職長に聞いたってわかりっこないしな」 前の職長で熟練した技術者だったクロイツナハなら的確な指示を与えてくれただろうが、今の職長では『いらん報告をするな』といきなり殴りつけて来かねない。クロイツナハ技師は、『いずれ、お前はここの職長になれる男だから短気を起こすな。馬鹿には馬鹿なりの応対をしておけ』と言い置いてイゼルローンへ発っていった。敬愛していた前職長の言葉を精一杯守っているエーリッヒだが、そろそろ我慢も限界に近い。 ―――構うものか! エーリッヒは、胸の裡で投げやりに近い呟きを漏らす。最近の生産ラインから送り込まれてくる製品モジュールの品質劣化は目を覆うものがある。職務に忠実に、規定された規格チェックを厳格に行う者は『不良品』をはねる率が高くなる。一方、チェックを適当に手抜きする者の不良品率は低い。本来、高く評価されるべき前者が『成績不良者』として睨まれるようになったのは、彼らを監督すべき上位者のレベルも大幅に下がっているからななのだ。 とは言え、『成績不良者』のレッテルを貼られ、懲罰的に徴兵され、前線へ送り込まれる愚を敢えて冒す者はいない。工廠で生産される兵器の不良率が上がれば、前線での犠牲者は増える。しかし、帝国軍の上層部はより多く味方の兵士を死なせた提督を『前線での労苦を敢えて厭わない名将』として評価する有様だ。 ―――合格だ、合格。構うもんか。 『合格』のキーを弾いたとき、三時間の残業時間の終了を告げるチャイムが鳴る。ほうっと息をついて、エーリッヒは計測システムのコンソールに『作業中断』の命令を打ち込んだ。一〇分の休憩を挟んで、次の作業チームが彼の後を引き継いでくれるはずだった。 完成品のモジュールは、他のモジュールと一緒にコンテナへ運び入れられ、宇宙船工場へと運ばれる。複雑な配送ラインを通ってコンテナから分配された件のモジュールは、とある戦艦の通信ブロックを建造中の工廠区画へと運び込まれた。 その三ヶ月後、完成した新型の宇宙戦艦は、ちょうど上級大将に位階を進めたばかりの、若い提督に旗艦として与えられることになる。 戦艦の進宙式に臨んだ軍務省の武官は、リヒテンラーデ公爵の署名入りの書類を高らかに読み上げた。 「本艦を『バルバロッサ』と命名する。本艦が、その名にふさわしい武勲と幸運に恵まれんことを」 その戦艦を旗艦として受け取った若き上級大将はジークフリード・キルヒアイスその人だった。 (二) ヴェスターラント 「―――お休みでしたか?」 入ってきたベルゲングリューンは、ちょっと驚いたように目を瞠った。 「少しだけ休むつもりで横になったら、眠ってしまったようですね」 軍服の上着のボタンを止めながら、キルヒアイスはかぶりを振る。五万隻を超えるリッテンハイム侯の大軍をキフォイザー星域で一蹴し、ガルミッシュ要塞に追いつめて止めを刺した戦いから、まだ数日を経ていなかった。 「お疲れでしたら、今少しあとに伺いますが?」 「いえ、構いません。なにごとですか」 「実は何とも判断の付かない通信が入っておりまして……閣下のご判断を仰ごうと考えたしだいです」 ベルゲングリューンの差し出した通信文に目を走らせて、キルヒアイスは眉を曇らせた。 「アルベルト・フォン・シュペーア准将?」 「フォン・シュペーア伯爵の係累です」 「シュペーア伯爵?」 フランツ・フォン・マリンドルフ伯爵の説得に応じて、ラインハルト陣営支持に回った数少ない有力貴族の一人だった。もともと辺境宙域の領主で、キルヒアイスの辺境平定にも積極的な協力を惜しんでいない。さすがに兵員の補充まではなかったが、食糧や医薬品、燃料と弾薬などの物資供与だけではなく、物資輸送のための高速輸送船の提供までを引き受け、忠実に実行してきていた。 伯の協力がなければ、辺境経略がこれほど早く進むということはなかっただろう、と言われる所以である。 帝国軍の人名録によるとアルベルト・フォン・シュペーア准将はファーレンハイト中将の部将の一人だ……とベルゲングリューンは補足する。 「何かの罠でしょうか? それにしても、ブラウンシュヴァイク公がヴェスターラントに熱核攻撃を加える計画を立てている、とは」 「いえ、その前に閣下、ご注意下さい」 コンソールをお借りします……律儀に断りを入れてから、ベルゲングリューンはコンソールを操作して宙域図を表示させる。 「現在、我が艦隊はこの宙域におります……」 ホログラム・スクリーンの一点で赤い光が点滅する。 「ガイエスブルグはこの位置、ヴェスターラントはここです」 ベルゲングリューンの意図をキルヒアイスは察した。 「距離的に超光速通信< FLT >が直接届く位置ではない……ということになりますね。どこかを中継したのではありませんか」 「チェックしましたが、確かにガイエスブルグから直接発信された通信です。通信士に言わせると、超光速通信< FLT >の到達距離には制限がありませんが、受信する側の感度に限界があるので、この距離関係では本艦の受信装置の能力では受信しきれるとは思えないのです」 「では、ラインハルトさま……ローエングラム侯か、もしくはわたしを牽制し、艦隊を分派させようとする罠ではないか、ということですか?」 「―――そうなのですが、一概にそうとも言い切れないのです」 だから困惑しております。ベルゲングリューンの口調は困惑を隠しきれなかった。ヴェスターラントを治めていたシャイド男爵…ブラウンシュヴァイク公の甥…が強引極まる圧制を敷き、これに対して暴動が頻発している。その事実を、キルヒアイスが辺境全域に張り巡らした情報網は的確に捉えていた。シャイド男爵の統治能力を暴動の規模が超えるのは時間の問題であり、一方、当のシャイド男爵は自らが自分の首を締め上げる行為を続けていることに一向に気づいていない。 「ブラウンシュヴァイク公は典型的な門閥貴族ですからね」 考える内、キルヒアイスは得体の知れない不安と恐怖がじわじわと心の中に広がっていくのを感じている。 典型的な門閥貴族。すなわち、恣意のままに奪い、殺し、何の罰も受けないことを当然と考える人々の主魁。そのような人々が、暴動という形で抵抗を受けたとき、どのように反応するか…『一三日戦争』以来、タブーとされる熱核攻撃ですら平然と命じたとしても何の不思議もない。 何の前触れもなくアンネローゼが彼らの前から強奪されていったあの日のことを、キルヒアイスは思い出す。重苦しい苦さを伴った悔恨と怒りが熱泥のように心の深部から吹き上げてくるような錯覚に苛まれ、キルヒアイスは一時目を閉ざして叫びだしたい衝動が走り過ぎるのを待った。 「閣下?」 「―――どうして、彼らは奪われる者の苦しみを察しようとしないのでしょうね」 そうなのだ。奪われる者の苦しみと怒りなど、門閥貴族たちにとって僅かでも顧慮に値するものではない。ましてや、自分たちが罰に値する行為をしていると意識の欠片すらありはしないのだ。 「このシュペーア准将がどういう人物か、分かりませんか?」 「それでしたら、シュペーア伯爵に直接お問い合わせになるというのはどうでしょうか。シュペーア伯は信じるに値する人物と思いますが?」 「そうですね。回線をつないでみて下さい」 「は……」 「それと、ルッツ、ワーレンの両提督に、『バルバロッサ』までのご足労をお願いして下さい。万一、この通信が真実であったなら、行動には一刻を争うことになるでしょうから」 「了解であります」 ベルゲングリューンを見送ると、すれ違うように通信士官の一人が姿を現した。帝都およびローエングラム侯の本隊からの連絡を携えた小艦隊が到着したという。リアルタイム性や万一の場合の機密性でも超光速通信には及ばないが、紙やビデオに収められた家族からの手紙は、はるか辺境宙域への征途に立つ将兵たちにとってかけがえのないものに違いない。 届けられたビデオ・レターのラベルにアンネローゼ特有の柔らかな筆跡を見いだして、キルヒアイスの胸は躍った。たまらない懐かしさと僅かな後ろめたさが同時にこみ上げてくるのを味わう。 なぜ、後ろめたく思うのだろう……キルヒアイスは思い当たった。これまで、アンネローゼがビデオ・レターを送ってくるとき、宛先はかならずラインハルトとキルヒアイスの二人が連名だった。彼一人に対してアンネローゼが手紙をくれるのは、多分、いや確実にこれが初めてのことだ。 この手紙のことを知った時のラインハルトの表情を思い浮かべてみて、微かな後ろめたさに似た想いを避けられないキルヒアイスだった。が、それよりも嬉しさが先に立つのも、やはり当然のことだった。 伝えられてくるラインハルトとキルヒアイスの捷報の意味する彼らの無事と健康に安堵している旨を伝え、様々に労いと注意を与えてくれるのは、ラインハルトと連名のレターとほとんど変わらなかった。そうだとしても、心の聖域に棲む女<ひと>の姿はキルヒアイスの胸の裡を暖かな想いで満たしてくれた。 『……ごめんなさい、ジーク。手紙でまで、こんなことを言うつもりはなかったのだけれど』 不意にアンネローゼの口調が微妙に変わったことに気づき、キルヒアイスは背を硬直させた。弟<ラインハルト>のそれより色が濃く、柔らかな彩りを湛えた瞳が微かな憂いに翳っていた。 胸に氷塊が生まれるのを感じ、キルヒアイスは彼女の次の言葉を待つ。 『あなたたちが戦いに勝ち続ければ勝ち続けるほど、不安になることがあるの。あなたたちはまだ若いということに注意してね。急ぎ過ぎなくても、望みは叶うもの……いいえ、望みを叶えるために、あえて遠回りをしなければいけないときや、決して急いではいけない時があると言うことを、あの子は時々見失っているときがあります……それを止められる人がいるとすれば、それはジーク、あなただけです。どうか、あの子に、急ぐべきでないときに急ぎ過ぎることがないように。本当に大切なことが何なのかを忘れて、高く跳び続けることだけに目を奪われてしまわないように気をつけてやってほしいの。どうか、あの子を見離さないで。心に掛けてやって下さいね、ジーク。帰ってくる日を楽しみにしています』 ―――見離すなんてことはあり得ません、アンネローゼさま。 ほっとためていた息を吐き、キルヒアイスは呟く。 ―――それどころか、わたしの方がラインハルトさまに見離されてしまわないように付いていくのに必死なんですから。 その思いに囚われて、キルヒアイスはアンネローゼの次の言葉を聞き漏らしていた。アンネローゼは最後に、いつになく明るい笑顔になって続けたのだ。 『あなたが帰ってくると思うことで、わたしにもまだ生きている意味があるのだと思えるわ。また逢う日まで<アウフ・ヴィーダーゼーエン>、ジーク』 「また逢う日まで<アウフ・ヴィーダーゼーエン>」 思わず口に出して応答してしまい、苦笑したが、すぐに表情を改めて考え込む。『望みを叶えるために、決して急いではいけないときがある』とは、アンネローゼはなにを言おうとしたのだろうか。特に何らかの意味を込めたわけではなく、天空の高処に駆け上がるラインハルトの翼ある脚が、時に足場を疎かにするかも知れないことを案じて、あのような言葉を使ったのだろうか。単に初めてアンネローゼから手紙を貰えたと言うことで、彼女の言葉の一節一節に無用にこだわっているだけなのだろうか。 答えは出なかった。まるで無限回廊にでも踏み込んだように、キルヒアイスは彼らしくもない思考の堂々巡りを続けていた。 『閣下、シュペーア伯爵との連絡が取れました。艦橋へおいで願えますか。ルッツ、ワーレン両提督もまもなく本艦へ到着なさいます』 ベルゲングリューンからの割り込みが、キルヒアイスを現実に呼び戻した。 「了解です。五分後にブリッジに入ります」 ビデオ・リーダーを切り、迷いのない歩調でキルヒアイスは司令官休息室を出る。胸の裡ではまだアンネローゼの言葉を反芻してはいたが、すでに心の視野はガイエスブルグとヴェスターラントに関わる方面を映し出していた。 『アルベルトは信じてもらってよい。まだ若いし、さして軍人として才能があるとも思われんし、それに不正に断固として立ち向かうほどの気概のある男でもないがな』 シュペーア伯爵家当主のフェルディナンドはすでに六〇歳を超えている。長寿学の進んだ近年でも初老に分類されておかしくない年齢だった。ほとんど灰色になった髪と、皺深い目元が、キルヒアイスに僅かな懐古に似た感情を催させる。 フェルディナンド・フォン・シュペーアが辺境平定での後方兵站に関する協力を申し出てきたとき、ラインハルトはキルヒアイスに問うたものだ。どんな老人だ、と。 「故グリンメルスハウゼン閣下に似ておいでです」 その言葉に、ラインハルトはちょっと嫌そうな、それでいて奇妙に懐かしそうでなくもない表情で頷いたのだ。かつて、キルヒアイスの才能を評価し、彼とラインハルトに庇護の傘を差しだしてくれた老人に嫌悪や憎悪に感情を抱く理由を、彼らは持たなかった。 そう言えば、グリンメルスハウゼン老人からも、アンネローゼに似た言葉をかけられたことがあったような気がする。 「―――人生に関してじゃよ。卿らが、人生に関して急ぐ必要は何もないということだ」 確かそんな言葉だったように思う。 だが、ラインハルトはそんな老人の言葉に反発したはずだ。一刻も早くゴールデンバウム王朝を倒し、その血統に生まれたと言うただそれだけの理由で皇帝の座を占め続けているあの老人を相応しからぬ玉座から追い払って、アンネローゼを彼らの手に取り戻す。そのために、可能な限り、急がなければならないのだ、と。 無論、フェルディナンドはグリンメルスハウゼンよりもはるかに有能であり、宮廷では伯爵、帝国軍では大将の地位を保持する一方、所領のノイストリエンは辺境でも最も富裕な星系として知られている。 『じゃが、根は正直な男じゃから、無闇に嘘の情報を流すような器用なことはできないと思ってもらってよかろう』 「そのアルベルト・フォン・シュペーア准将から、ある惑星が無差別攻撃を受けると言う通信を受け取っています」 『アルベルトがの?』 「ファーレンハイト中将の麾下に加わっておられるようですが、閣下とは袂を分かたれたのですか?」 『いや……あれはアーダルベルトの崇拝者じゃ。アーダルベルトがオットーにつくと判断したから、アルベルトもアーダルベルトと共にオットーの陣営に加わった。ただ、それだけのことに過ぎぬ。別に深い理由があるわけでもなかったのに、わしの説得など聞くものではない。ファーレンハイト閣下が誤った選択をなさるはずがない、と一点張りじゃったよ』 つまりファーレンハイトか、あるいはその周辺からこの情報が漏れたと判断するべきか。それにしても、偽情報を流してラインハルトの陣営を混乱させようと言う謀略ではないと判断するには薄弱な根拠だが。それとも、ファーレンハイト達の純粋な軍人たちと門閥貴族達の間にすきま風が吹き始めているとも見られないこともない。 『ブラウンシュヴァイク公が無差別核攻撃をおこなうというのですか?』 横合いから声がかけられた。シュペーア伯爵の長い眉が大きく動く。 『失礼じゃぞ、話に割り込むのならまず名乗ってからにせぬか』 『失礼しました、伯父上、キルヒアイス提督』 画面が動き、壮年の男性が現れる。四〇代後半の年齢に見えるが、肌は若々しく張り、眼光にもいささかの老いも兆していない。銀灰色の髪をオールバックにしているせいか、額が抜け上がったように広く、研ぎ澄まされたナイフのようにシャープな印象を与えた。 男は、モーリッツ・フォン・シュペーア・ウント・ノイエシュタウフェンベルクであると名乗る。 『長い名前で失礼します、提督。シュペーア伯の甥にあたります』 「ノイエシュタウフェンベルク男爵領からも多大な協力を頂いています」 柔らかな言葉の裏で、キルヒアイスは辛辣極まる観察眼を働かせている。この人物はラインハルトさまの役に立てる人物か、役に立てない人物か、それとも彼の敵になる人物か……と。 静かな青い目の凝視を、モーリッツは平然として受け止めている。薄い鉄色の瞳が、まるで靄を漂わせたように表情を曖昧に隠していることにキルヒアイスは気づいた。有能そうな人物だが、一つ誤ると非常に危険な敵にも回りかねない……脳裏を義眼の参謀長や金銀妖瞳の提督の姿がよぎり、慌てて無用の連想を頭から追い出す。シュペーア伯にしてもノイエシュタウフェンベルク男爵にしても、無条件の好意でラインハルトに与しているのではない。貴族連合軍とラインハルトを秤に掛け、ラインハルトの勝算を認めたと言う点で、彼らの明敏さは賞賛されてよい。それに、色眼鏡をかけずにラインハルトの天才を評価しただけでも、彼らを味方と認めて良いはずだった。 「何かご意見でもおありでしょうか」 『あくまで一つの謀略として考えていただきたいのだが、ブラウンシュヴァイク公が有人惑星への無差別攻撃を考えているというのであれば……』 衝撃を受けた表情をキルヒアイスは隠せなかった。 「放置しろ……とおっしゃるのですか、男爵?」 『ブラウンシュヴァイク公は人の上に立つには度量がなさ過ぎる』 モーリッツの言葉には容赦がない。 『無差別攻撃を行うとすれば、それは公の感情的な爆発によるもの、おそらくはローエングラム侯に連戦連敗している現在の戦況に苛立って、怒りを暴発させた挙げ句のことに違いありますまい。決して、戦略的な要請のために行われるべき作戦ではありません』 ならば放置して、攻撃させるというのも策の一つだ……モーリッツは言う。犠牲者が巨大な数に上り、無力な女子供、老人が犠牲の祭壇に供されたことが伝われば、帝国臣民の貴族連合軍への支持は一挙に衰える。 『……貴族連合軍を艦隊決戦でうち破り、ブラウンシュヴァイク公とその一党の首を上げたところで、まだ多くの貴族たちが反抗をつづけるでしょう。しかし、帝国臣民のレベルでの支持を失ってしまえば、たちまちに潰え去るだけのこと……彼らを平定するための犠牲、時間、費用とも比較にならない程度、小さなものに抑え得るのではないかと思いますが……』 キルヒアイスは顔色を変えていた。政略のために敢えて数百万の無力な人々が虐殺されるに任せる。確かに、アムリッツァの会戦に先だって、キルヒアイスたちは一種の焦土戦術を展開したことがある。一切の食糧と穀物の種子を接収し、自由惑星同盟軍の兵站に耐えられないほどの負荷を与える作戦を実施し、優に一億を超える人々を飢餓線上に放り出したのだ。 実際に飢餓で生命を失った人々はいなかったし、侵攻してきた自由惑星同盟軍は考えられる限り短時間で帝国領から撃退された。いや、あの作戦を採ったからこそ、短時間で、辺境宙域の人々を戦火に巻き込むことなく反撃と撃破が可能だったのだ……だが、それにしてもキルヒアイスにとって後味は良いものではなかったし、当のラインハルト自身も『二度はやりたくないものだ』と漏らしていたほどなのだ。 今度は、なにも知らない人々を生命の危険に曝すのではなく、見殺しにしてしまおうというのだ。何も知らずに平和に…ではないかも知れないが…暮らしている人々の頭上に、ある日いきなり巨大な火の玉が炸裂し、吹き付ける熱線と爆風が何もかもを焼き払う。救いを求める子供たちの悲鳴、子供を捜し求める親たちの叫びを、核爆発の劫火がかき消していく。 『もうよい、モーリッツ。キルヒアイス提督も、お前の意見は了解なさったじゃろう。あとは提督の判断にお任せするが賢明というものじゃ』 『左様ですね、伯父上……キルヒアイス提督、出過ぎたことを申し上げました。あくまで、これはわたくしの私案に過ぎません。ご不快に思われたならば、どうかお許し下さりたく。しかしながら、今次の戦役を一刻も早く終結に導き、より短期間にローエングラム侯の覇権を確立するために最高の手段であると愚考したしだいであるとご了解願います』 「一刻も早く……より短期間に……?」 『は……』 「そのために、数十万から数百万の、何の罪もない人々を犠牲にしても構わない、と?」 『あくまで一つの手段に過ぎぬと……今次戦役がこのまま続けば、戦火に巻き込まれ、あるいは治安の悪化により、なお一〇〇〇万を超える帝国臣民が犠牲者の列に加わるでありましょう。一〇万から一〇〇万の犠牲者で、一〇〇〇万の無辜の民が救えるのであれば、その策を採るべきではないか……と』 『モーリッツ!』 『これは……出過ぎました。恐れ入ります、提督、伯父上。もはや申し上げません』 モーリッツの言葉をキルヒアイスは聞いていなかった。 ―――一刻も早く、より短期間に勝利を得るために…… そのために数百万人を犠牲にする。予想される一〇〇〇万人以上の犠牲者を少しでも減らすために、数百万人の、手を打ちさえすれば確実に避け得る死を敢えて見過ごす。 ラインハルトさまならどうなさるだろうか……より短期間の、より少数の犠牲での勝利を手中にするために、モーリッツの進言をお受けになるだろうか……? 純粋に政略・戦略レベルでの考察を進めるならば、モーリッツの進言は正しい。より早く、より効率的に覇者への道を歩むとするならば…… “―――分かった、ヴェスターラントは見殺しにする。ブラウンシュヴァイク公の蛮行を撮影し、帝国全土へ放映せよ。大貴族どもの愚劣さを帝国の人々すべてに知らしめてやるのだ” 命令を下しているラインハルトの姿が、不意にある醜悪な姿とだぶって見え、キルヒアイスはこみ上げてきた吐き気を抑える。幼い日に、彼とラインハルトが超克を誓い合った、あのルドルフ・フォン・ゴールデンバウムのおぞましい戯画<カリカチュア>が、ラインハルトの姿に重なり合う。その光景こそ、彼が最も目にしたくないものではなかったか? 「―――おやめ下さい、ラインハルト……さま」 声は呻きに近かった。 「ブラウンシュヴァイク公はなしてはならぬことをやってのけようとしていますが、それを座視していたのでは、わたしたちもなすべきことをなさなかったことになります」 “―――俺がいつ、この件でお前の意見を聞いた?” ラインハルトの言葉を、彼は理解できなかった。なぜだ……なぜ、ラインハルトさまがこんな言葉を…… “いったい、お前は俺の何だ?” 「―――わたしは……」 “そうだ、お前はおれの何だというんだ?” 「……わたしは……」 目の前の壁に掲げられた三葉の写真……三男ヨハン、四八四年戦死、二二歳―――最後の息子。血と涙で綴られたような文字とアンネローゼの姿がないまぜになってぐるぐると回り出す。 『決して急いではいけない時があると言うことを、あの子は時々見失っているときがあります』 “そうだ、お前はおれの何だというんだ?” 「わたしは……ローエングラム侯の忠実な部下です……」 決して口にしてはならない言葉。 心の裡で何かが壊れた。 壊れてはならぬものが壊れた。 決して元には戻らぬ、何かが永久に…… “そうだ。分かっているのならいい” 口にされてはならぬフレーズ。二人の間に再び埋めることのできぬ亀裂を穿つ、その言葉の連なり。 キルヒアイスは激しくかぶりを振った。 「違います……」 叫んだつもりだったが、それはうめき声に近い小さな呟きとなって唇をこぼれ出ただけだった。 「違います、ラインハルトさま! それはなさってはならないことです。それをなさったなら、わたしはもはやあなたの忠実な部下ではあり得ません」 「どうなさったのです、閣下?」 再び、キルヒアイスを現実に呼び戻したのはベルゲングリューンだった。 「お顔が真っ青ですが?」 深い海の底からいきなり浮かび上がってきたような感覚にとらわれ、彼は周囲を見回す。ベルゲングリューン、シュペーア伯、そしてノイエシュタウフェンベルク男爵。三対の異なる表情を浮かべた目が、彼を凝視していた。 大きく息をつく。何度か深呼吸をして、いつもの柔らかい微笑を浮かべる余裕を取り戻した。 「え、いえ……何でもありません……お時間を取らせました、伯爵。貴重な情報を頂いて感謝いたします。ご意見、ありがたく承っておきます、男爵」 モーリッツは鮮やかな敬礼を返し、シュペーア伯フェルディナンドは『道中、気をつけて行かれるがよい』と別れの言葉を告げた。 「ルッツ提督とワーレン提督は?」 「作戦会議室で閣下をお待ちです」 「すぐに行きます。ビューロー中将も呼んでおいて下さい」 「艦隊を分派する……のですか?」 作戦会議室内を満たした驚愕の波動を、キルヒアイスはさりげなく無視した。もはや迷いはなかった。 「艦隊の中で最高速の巡航艦を三〇〇〇隻、大至急選び出して下さい。艦隊指揮はビューロー中将、貴官にお願いします」 「それはよろしいですが……ヴェスターラント星系となると、全速力で急行しても一〇日は優にかかります。間に合うでしょうか?」 「間に合わせて下さい。無差別核攻撃だけはなんとしてでも止めさせなければなりません。半数が脱落しても構いません。ワーレン提督、貴官には一万隻を率いて前衛となり、ビューロー中将に続いてもらいます。脱落艦を収容しつつ、敵に各個撃破の隙を与えないように警戒を」 「了解であります」 「併せて情報収集をお願いします。誤報である可能性もありますし、我々の分散を狙った謀略の可能性もあります。万一、ヴェスターラントへの攻撃部隊以外の敵の大部隊と遭遇した場合、ビューロー艦隊を収容して、本隊と合流して下さい。よろしいですね」 「しかし……」 疑問を呈したのは、ワーレンだった。 「どうして、この距離でガイエスブルグからの通信が入ったのでしょうか? 距離的にはローエングラム侯の本隊の方が近いはずです。なぜ、ローエングラム侯からはご指示が頂けぬのでしょうか?」 「それは……」 キルヒアイスも明確な回答を用意していない、それは問いかけだった。本来の超光速通信受信距離の三倍近い距離での通信文受信と、彼らよりも先に情報をつかんでいておかしくないはずのラインハルトの本隊の不可解な沈黙。 「―――戦場では常識では説明できぬこともあるからな」 ルッツが、僅かな藤色の彩りを瞳に帯びさせていた。 「後方部隊が敵情を的確に把握していたのに、前衛艦隊は五里霧中のままに一方的に敵に叩きのめされたなんて例は、戦史の教科書に目一杯載っているぞ。本当にブラウンシュヴァイク公がこんな馬鹿なことをやろうとしているのだったら、我々が先にそれを知ったのは偶然だし、謀略だとすればこれは必然だ。それを不思議がっていてもしかたがあるまいよ」 「それはそうだな」 頷き、ワーレンはビューローを促して立ち上がる。 「では、戦場では巧遅よりも拙速を尊ぶと言う言葉もあることだ。一刻も早く出かけるとしよう」 ☆☆☆ 「いっそ、血迷ったブラウンシュヴァイク公に、この攻撃を実行させるべきです……その有様を撮影し、大貴族どもの非人道性の証とすれば、彼らの支配下にある民衆や、平民出身の兵士達が離反することは疑いありません。阻止するより、その方が効果があります」 「……二〇〇万人を見殺しにするのか。中には女子供もいるだろうに」 「この内戦が長引けば、より多くの死者が出るでしょう。また、大貴族どもが仮に勝てば、このようなことはこの先、何度でも起こります……」 オーベルシュタインの冷徹極まりない言葉を、ラインハルトは明らかにひるみと躊躇の色を露わに見せていた。 「目をつぶれと言うのか」 「帝国二五〇億人民のためにです、閣下……」 そして、より迅速な覇権確立のために……だめ押しの言葉をオーベルシュタインが口にしかけたとき、駆け寄ってきた人影があった。『ブリュンヒルト』の通信士官の一人である。 「何事だ?」 口調は鋭かったが、ラインハルトはある種の安堵の表情を浮かべていた。 「元帥閣下、緊急の超光速通信電文を受信しました。きわめて遠距離ですので、テキストのみ受信しております。ただいま、暗号解読を完了いたしました」 「発信者は?」 「キルヒアイス上級大将閣下、それとフェルディナンド・フォン・シュペーア伯爵大将閣下です」 「キルヒアイスが……?」 通信電文を記したプレートを受け取り、素早く文面を読み下す。読み進むに連れ、眉のあたりに浮かんでいた険しい色合いが薄れ、やがて莞爾とした微笑に取って代わられる。 「オーベルシュタイン」 「は……」 「卿の進言には聞くべきところはあると思うが、やはりわたしには受け入れかねる」 「閣下、お聞き下さい」 「キルヒアイス上級大将に命令せよ。急行して、ヴェスターラントをブラウンシュヴァイクの蛮行から救え、と」 オーベルシュタインは大きくため息をついた。半ばは演技だったのかも知れないが、残り半ばは確かに本心だっただろう。 「閣下、敢えて申し上げますが、手を汚さずには覇権の確立はなりませんぞ」 「―――くどいぞ、オーベルシュタイン。マキャベリズムの初歩を卿から学び直そうとは思わぬ……それに」 微笑がやや悪戯っぽい、悪童めいたものになるのに、オーベルシュタインは本気で眉を顰める。 ラインハルトは文書プレートをオーベルシュタインに放って寄越す。 「すでにキルヒアイスが情報を察知して動きだしている。計算上ではあと三時間半で先遣部隊がヴェスターラントに到着する。ブラウンシュヴァイク公の空襲部隊の到着は何時間後だ」 「約……四時間後と推定されます」 「際どいところだが、辛うじて間に合うな。ケンプに命じて、キルヒアイスの側面を護衛させよ。そんな気遣いは無用と思うが、キルヒアイスに無理をさせて各個撃破を狙う謀略という可能性も捨てきれない」 「御意……」 「珍しいな、異論はないのか」 あるいはラインハルトはほっとしていたのかも知れない。言葉は辛辣だったが、口調はそれを裏切っていた。無論、ラインハルト自身、彼が迫られていた決断の際どさへの明確な認識は欠いている。 「時期を逸した謀略など、幼児の悪戯にも劣ります。キルヒアイス提督だけのことであれば、行動の中止を命じれば済むことですが、シュペーア伯爵にまで知られていては、我々が知っていてヴェスターラントを見殺しにしたことを隠しおおせますまい」 オーベルシュタインは暗号文書を記したプレートを指先で捻る。特殊な合成樹脂製のプレートはあっさり砕け、細かな塵となって指先を離れると処理機に吸い込まれていった。 ビューローの行動は最善を尽くしたものだったが、それでも完璧にはほんの僅かだけ及ばなかった。 三〇〇〇隻の高速巡航艦を率いたビューローは、キルヒアイス艦隊本隊を離れて九日目にヴェスターラント宙域へ到達したのだが、ワープアウト・ポイントがブラウンシュヴァイク公軍の艦隊に対して、ヴェスターラントを挟んだ真向かい側だった。すでに二〇〇〇隻近い僚艦を脱落させていたビューローは、旗艦のフロアを踏み抜かんばかりに残余の麾下艦艇を駆り立てたのだが、それでもほんの少し遅かった。 ヴェスターラントには五〇あまりのオアシスがあり、ブラウンシュヴァイク公軍はこれらのオアシスに集中的にレーザー水爆ミサイルを投下するべく艦隊を展開した。ビューローの艦隊が駆けつけ、凄まじいまでの主砲とレール・キャノンの斉射でその側面を叩き砕いたのは、最初の一〇数発が発射された直後だった。 「一発も着弾させるな、救え!」 ビューローは叫び、これに応えた数隻の巡航艦が大気圏すれすれにまで急降下、落下するレーザー水爆ミサイルに敢えて艦の側面を曝して、近接射撃用のレーザー機銃群で迎撃するという離れ業を試みた。 一〇発を超えるミサイルがこれで撃破され、ヴェスターラントの大気上層を禍々しい閃紫色の閃光で染め上げたが、それでも数発が大気圏に突入して行くのを阻止しきることはできなかったのだ。 ビューローたちが恐怖に目を瞠る中、ヴェスターラントの地表に閃光が走り、純白の閃光は一瞬後には真紅の火球と化してオアシスの一つを覆い尽くした。凄まじい爆風と熱気の波濤がすべてを吹き飛ばし、焼き尽くす。建物が倒壊し、農作物やまばらな木々が瞬時に炎の中で燃え尽きていく。逃げまどういとまもなく、住民達が爆風でなぎ倒され、凄まじい熱線に生きながらに火葬されていく。 やがて…成層圏にまで舞い上がった膨大な量の土砂が、濃密な放射能を伴った黒い灰となって降り注ぎ、死に絶えたオアシスにおぞましい屍衣を纏いつけていった…… 凍りついたように地表の映像を凝視していた若い士官の一人が、コンソールから転げ落ちて嘔吐を始めた。実質的に攻撃を受けたオアシスは二カ所に過ぎなかったが、二カ所で十分だった。 「……あの艦隊を生かして帰すな!」 最初に叫んだのはビューローだったのかも知れない。だが、一瞬の硬直が解けると、恐怖と嫌悪、そして激烈な瞋恚に満ちたこの叫びがビューロー艦隊の複数の艦で同時に起こり、たちまちの内に全艦隊を席巻したのもまた事実である。 派遣されてきたブラウンシュヴァイク公軍の艦隊にとって、残りの戦闘は災厄に他ならなかった。数的には互角か、それ以上の兵力を擁していた彼らだったが、猛り狂ったビューロー艦隊の猛攻を受け止めるだけの戦意と能力には明らかに欠けていた。 開戦数時間で、ブラウンシュヴァイク公軍の艦隊は文字通りに一艦も余さずに全滅した。降伏信号を掲げた艦も一艦に留まらなかったのだが、巡航艦『オストファーレン』艦長の応答が、ビューロー艦隊将兵すべての意見を代弁していたと言えよう。 「お前達が一方的に殺戮したヴェスターラント住民に、お前達の薄汚い生命で贖罪するがよかろう!」 ☆☆☆ 「キルヒアイス、ごくろうだった」 四月初旬に辺境平定の征途に上ってから約四ヶ月ぶりに、キルヒアイスはラインハルトと再会の握手を交わした。 シュペーア伯爵の協力もあったが、六〇度を超える艦隊戦闘にことごとく打ち勝ち、リッテンハイム侯の別働隊を粉砕してガルミッシュ要塞に窮死させてその残存兵力を傘下に加えたキルヒアイス麾下の艦隊は七万隻あまりを数えるに至っていた。 「キルヒアイス提督の功績は巨大すぎる……」 囁く声もあったが、ラインハルトはもとより歯牙にもかけなかった。 「お前が辺境を押さえ込んでくれたおかげで、ガイエスブルグは青息吐息だ。大貴族どもは、明日の夕食に添えるワインにも事欠いているぞ」 「ラインハルトさまが賊軍の主力艦隊を抑えていて下さったので、仕事が楽に済みました」 「相変わらずだな、キルヒアイス。楽をしていないのはお互い様だが、その顔で“楽をしました”はかえって嫌みだぞ」 ラインハルトの指摘は正しい。四ヶ月間一二〇日に六〇度の戦闘は、二日に一度の戦いを強いられたことを意味する。兵は交代ができ、補充もあったが、指揮官たるキルヒアイスには一瞬たりとも休息は許されなかったのだから。 「それと、お詫びしなければならないことがあります」 「ヴェスターラントのことだな」 僅かに躊躇ってから、キルヒアイスは切り出したが、ラインハルトの応答は間髪を置かなかった。ラインハルトの素早い反応に、微かに残っていたしこりめいたものが消えていく。 その瞬間、キルヒアイスが味わったのは安堵だった。 何を恐れていたのか分からない。しかし、全く表裏のないラインハルトの応答は、確かに彼に全身の力が抜けるような安堵をもたらしたのだ。 「ええ……ほんの一時間の遅れでしたが……迷ってしまいました。まさか、と思ったのです。門閥貴族たちと言えども人間、まさか何の武装ももたない民衆に向かって無警告の無差別攻撃を加えようなどと本気で考えるとは……」 「お前の責任ではない。俺でさえ、情報をつかんだのは攻撃開始の前日だ。一体、どうやって奴らの動きを察知したんだ?」 『バルバロッサ』の通信機が全く偶然のように捕捉した一通の電文。本来、受信できるはずのない、減衰しきった通信波だった。 「運が良かったとしか言えません」 「そうだ、運が良かったのだ―――いずれにしても、お前が気に病むことなどなにもないぞ。下手をしたら二〇〇万の住民すべてが虐殺されていたかも知れないのだ。死者が一〇の一で済んだことでよしとしなければなるまい」 「―――ラインハルトさま……」 「何だ、キルヒアイス」 「わたしは……」 なぜ、そんな言葉が浮かんできたのか、それも分からない。ほとんど衝動に近いものに突き動かされながら、キルヒアイスは言葉を継いだ。 「わたしは……ラインハルトさまの何なのでしょうか」 「分かり切ったことを今更聞くんじゃない」 ラインハルトは全く気にした様子もなかった。 「お前は俺の半身だ。決まっているではないか……疲れているんだな。姉上のりんごタルト< アップフェル・トルテ >でもあればいいのだが、前線では贅沢も言えないな。帰ったら、思い切り大きなやつを作ってもらうとして、ワインでもどうだ。ワインの一杯も飲んで、今夜はゆっくり休め……門閥貴族どもの手足は切り落としたが、艦隊の主力は無事だし、メルカッツやファーレンハイトも健在だ。休める内に、ゆっくり休んでおいてくれ」 帰るべき所へ帰ってきた。その思いからかも知れない。 その夜、キルヒアイスは夢を見た。 ―――アンネローゼさま…… 自分が呟いていたことなど、キルヒアイスはまるで覚えていなかったのだが。 ―――ジークは昔の誓いを守りました…… ―――ありがとう、ジーク。 夢の中のアンネローゼは輝くような笑顔で彼を見つめてくれていた。 ―――ラインハルトを導いてくれて。 ☆☆☆ ヴェスターラントの死者二一万四〇〇〇人余り。二つのオアシスが壊滅し、一〇を超えるオアシスが死の灰による汚染を被り、三〇万人あまりの住民が深刻な放射線障害による疾患に苦しめられる結末となった。 この悲劇は『ヴェスターラントの惨劇』と呼ばれ、その悲惨な映像は超光速通信の映像によって帝国全土に流された。それは各地に怒りと動揺を生んだ。民心は加速度的に、門閥貴族支配体制から離反し始め、これまでブラウンシュヴァイク公を支持していた有力貴族や、辺境宙域開発担当の官僚達までが雪崩を打ってラインハルト陣営の支持に回り始めたのである。 『オーベルシュタイン参謀長(当時)が主張したように、ヴェスターラントを見殺しにしていれば、この期間はさらに短縮されたかもしれない』 数十年後、公表されることになる手記の中で、この時期オーベルシュタインの副官だったアントン・フェルナーは評している。 『しかし、二つのオアシスの住民が虐殺されたことで、大貴族の非人道性を訴えるという参謀長の狙いは達せられたも同然となった。しかも、無茶と承知でキルヒアイス提督がヴェスターラント救援に向かい、住民の八割強の生命を救ったという事実が、ブラウンシュヴァイク公の残虐さとローエングラム侯(当時)の公正さを額縁つきで強調する結果になった。 仮定の話に過ぎないが、オーベルシュタイン参謀長の主張通り、ヴェスターラントの見殺しをローエングラム侯が認めていたとしよう。その場合、ローエングラム王朝でのナンバー2となるべきキルヒアイス提督が、ローエングラム侯の判断を受容したかどうかという大きな疑問が残る。見殺し策は、門閥貴族の断末魔を縮める一方で、来るべきローエングラム王朝にもまた覆いきれない大きな傷を、その身の内に負わせたかも知れないのだ。 翻って、キルヒアイス提督の救援が完全にタイミング良く行われ、ヴェスターラントの住民すべてが無傷で救われたとしてみる。この場合、民意の門閥貴族離れは史実ほど急速には起こらず、参謀長の主張通り、さらに二〇〇〇万もの戦火の犠牲者が戦場に斃れた可能性を否定できない。 結果論に過ぎないかも知れない。ヴェスターラントの惨劇は、全くの偶然から、ローエングラム王朝に最も好ましい形で発生し、終息したとも言えるのだ』 この偶然をもたらしたのが、『バルバロッサ』の超光速通信装置のある通信モジュールの誤動作だったことが判明するのは、『バルバロッサ』が退役してのちのことになる。 『ヴェスターラントの惨劇』以降、リップシュタット戦役は急速に終結へと向かい始める。ガイエスブルグ要塞宙域で貴族連合軍の艦隊が決定的な敗北を喫するのは、『ヴェスターラントの惨劇』から間もなくのことだった。この戦いでメルカッツ、ファーレンハイトを初めとする生粋の戦闘指揮官や、アンスバッハ准将麾下のブラウンシュヴァイク公私兵集団の内、コルトニー・ゲオルグ・マルツウェル大佐指揮下の巡航戦闘部隊、ロベルト・“シュピーゲル”・クルツバッハ中佐の突撃戦闘集団などは、それぞれワーレンとシュタインメッツに手を焼かせるほどの奮戦を示したが、大勢を覆すには至らなかった。 戦いは、ジークフリード・キルヒアイス上級大将率いる二万隻余りの高速巡航艦の大群が貴族連合軍艦隊の側背を突いた時点で完全に決した。猛り立ってラインハルトの本営を目指したもの、分厚い前衛集団に食い止められて戦力と戦意を限界まで削り取られた貴族連合軍に、キルヒアイスの横撃に対抗する余力は全く残されていなかったのである。 (三) ガイエスブルグ 九月九日、ガイエスブルグ要塞。 大広間での戦勝祝賀式典に参加する武官は、ローエングラム侯への忠誠を誓って一切の武装を行わぬこと…ラインハルトの名前で出されたその命令を苦々しげに見つめたのは一人にとどまらない。 「また、あのオーベルシュタインが虎の威を借りて余計な口出しを……」 吐き捨てたのはミッターマイヤーであったし、 「武官とは武を持って忠誠を示すもの。一切の武装を行わぬことと、ローエングラム侯への忠誠とがどう結びつくものか、説明してもらいたいものだ」 と応じたのはロイエンタールだったと言われる。ただ、後者はメックリンガーのせりふだったとも伝えられる。ロイエンタールなら感想など漏らさず、ただシニカルな冷嘲を唇辺に浮かべただけだったのではないか。後世の史家はそう評する。いずれにしても、ローエングラム侯ラインハルトの名で出された命に表立って逆らう者はなく、この日、参集した提督たちはいずれも武器を身に帯びてはいなかった。 勝利の式典のおこなわれる広間の入口で呼び止められたキルヒアイスは、不審の眼差しで衛兵を見据えた。 「わたしはキルヒアイス上級大将だが、それでも武器を持つのはだめなのか」 「キルヒアイス提督でも特例は認められません。そういうご命令です。申しわけありませんが」 「……」 「閣下?」 「うん……それはローエングラム侯爵のご命令なのか?」 「そのように命令が出されております」 「……分かった」 「閣下……?」 「いや、いいんだ」 心の中にわき上がってきた違和感を整合できないままに、キルヒアイスは衛兵にブラスターを差し出した。他の提督が非武装の時でも、ラインハルトはキルヒアイスにだけは武器の携行を許可するのがそれまでの例だった。理由もなく、この慣例が覆されたことと。それが、キルヒアイスを見舞った違和感の源だった。 先に入室していた提督たちの間に、声にならないざわめきが広がる。彼らと目礼を交わしながら、キルヒアイスは彼らもまた彼と同じ違和感と懐疑に見舞われていることを察した。 六〇度以上の艦隊戦闘に完勝して辺境宙域を完全に平定し、ヴェスターラントを襲おうとした悲劇を最小限度で食い止めた。キルヒアイスの功績は、ガイエスブルグ要塞にブラウンシュヴァイク公爵以下の貴族連合軍を追いつめ、破滅に追い込んだ諸将の中でも抜きん出たものと言わざるを得ない。 しかし…… ―――特権意識を持ってはいけない。 キルヒアイスは自分に言い聞かせる。彼が門閥貴族と、ひいてはゴールデンバウム王朝と戦って来たゆえんは、一にかかってラインハルトと、そして……とは言え、一抹の寂しさが胸をよぎるのを抑えようもない。 ―――これでゴールデンバウム王朝は実質的に倒れた。ラインハルトさまと自分は、主君と部下としての立場以外にはなれないのだろうか。これが、その第一歩だというのだろうか? それもしかたがないことなのだろうか。それともこれは一時の処置でしかないのだろうか。 キルヒアイスは、これまで予想もしていなかった微かな不安が心の中に兆すのを感じていた。それは、ラインハルトが自分を裏切るのではないか……という不安だった。 ―――裏切る? 自分を友と呼んだあの金髪の少年が、再会してすぐ『お前はおれの半身だ』と断言したあのラインハルトが、その野望を達する間際になって、その野望の唯一の共有者であった彼を一部下の立場で扱う……これは、裏切りと言うべきものではないか。それと、ヴェスターラント……救えなかった二〇万あまりの住民。もし、ラインハルトがブラウンシュヴァイク公の暴挙を知りつつ、政略の目的でそれを見逃そうとしていたなら…… 思いかけ、キルヒアイスは激しくかぶりを振る。そんな馬鹿なことがあるはずはない。彼がラインハルトへの、ひいてはアンネローゼへの忠誠を一瞬たりとも揺るがしたことがない以上、ラインハルトが一方的にそんな裏切り…そう裏切り以外の何者だというのだ…を働くわけがないではないか。まして、『あるうべきより多くの犠牲を回避するため』に自ら手を差し出して救えるはずの数十万の民衆を見殺しにすることなど、あり得ない。絶対に、そんなことがあり得てはならない。 「どうした、キルヒアイス?」 案ずるように声をかけてくるミッターマイヤーに、キルヒアイスは曖昧に微笑って応じる。 「大丈夫です。ちょっと疲れているだけのようですから」 薄い嘲笑に似たささやきが後に続く。視線の先で、右が黒、左が青の瞳が皮肉っぽい冷笑を浮かべていた。もっとも冷笑の向かう先はキルヒアイスではなく、これから葬送曲で送られる者たちだったのだろうが。 「何にしろ、この式典が、ゴールデンバウム王朝への告別式だ。少々の疲れくらいは押してでも列席する価値はあるな」 「そうですね。これで……」 信じろ、信じるのだ、ジークフリード。ラインハルトさまは、一一年前、隣家に越してきた、あの孤独な激しい瞳をした金髪の少年から変わりなどしない。 いずれにしても、これでゴールデンバウム王朝は終わりだ。優しく、美しいアンネローゼを彼らから奪った、腐敗と老朽の汚泥の中に朽ち果てかけていた過去の遺物。劫火の中に、彼らの犯した罪にふさわしい罰を受けて歴史の闇の中に焼け崩れ落ちていくのだ。 式部官が肺活量を誇示するように叫んだ。 「銀河帝国最高司令官ラインハルト・フォン・ローエングラム侯爵閣下、ご入来!」 緋色のカーペットを踏んで、ラインハルトが入室すると、左右に居並ぶ高級士官たちが一斉に敬礼で出迎える。いずれ、正式な最敬礼に取って代わられるに違いないことを、列席したすべての士官たちが実感していた。 彼らに順に視線を送っていたラインハルトの視線がキルヒアイスに止まる。 一瞬、怪訝な表情がその美貌をよぎり、次の瞬間、覇者にはおよそ似つかわしくない、くすぐったそうな微笑が、形のいい唇に浮かび上がる。 「キルヒアイス!」 「は……」 「銃をどうしたのだ?」 ラインハルトの言葉の意外さに、キルヒアイスは絶句する。 「は……あの……」 「忘れたのか?」 「え……」 「まだ時間はある。取ってこい」 「ですが……」 「馬鹿だな、お前までが丸腰では、もしもの時に誰が俺を……」 「閣下!」 低いが明瞭な非難を込めた口調は、ちょうど、キルヒアイスの右側に佇立していた士官から発せられた。 「このような式典では、武官といえども武装を解き、ひとしなみに閣下への忠誠を明らかにすべきです。特例をお認めになるのは、覇権の当初からその基盤にひびを刻み込むに等しい愚行です」 「出過ぎるな、オーベルシュタイン。わたしが決めたのだ…キルヒアイス、早く部屋へ戻り、銃を取ってこい。式典は先に始めるが、お前の出番までには戻ってきてもらわないと困る」 「は……はい、わかりました、閣下」 さすがに“閣下はよせ”の一言はなかった。 衛兵は意外に頑固だった。 “そのような命令は受けていない”、“小官は広間に武器を持ち込ませてはならぬ。例外は認められぬと命じられております”の一点張りで、キルヒアイスに銃を返却することを拒んだのだ。 その間に打ちひしがれた様子の大貴族や、貴族連合軍に従って降伏を余儀なくされたファーレンハイト提督などが次々に広間へ呼び込まれていく。 さすがに根負けして、このまま広間へ戻ろうかと思い始めたとき、キルヒアイスは目を瞠った。 特殊ガラスのケースに収められた遺体とおぼしきものと、その傍らに付き従う初老の高級士官。その高級士官に、彼は確かに見覚えがあったのだ。 記憶の底を浚えて、彼は思い当たる。確か、アンスバッハ准将。クロプシュトック侯事件の時、ブラウンシュヴァイク公爵邸で主君の名を叫びながら、彼と行き会った……ブラウンシュヴァイク公爵の腹心であり、沈毅で細心な人柄が漏れ伝えられている。 ―――とすれば、あのケースの中の遺体はブラウンシュヴァイク公爵? 先ほどとは違った意味で、キルヒアイスは強烈な違和感にとらわれた。亡くなった主君の遺体を、仇敵の御前に引き出して検分に供するつもりなのか。 違和感のよってきたる所以に思いめぐらし、キルヒアイスは愕然とする。アンスバッハの立場に自分を置き換えたとして、ラインハルトの遺体を、こともあろうにブラウンシュヴァイク公爵の眼前に引き出すなどと言う行為を自分はやってのけられるわけはない。もし、やってのけられるとすれば…… 拳が人間の肉体にめり込む低い音と、肺の中の空気を一撃で叩き出されたうめき声が重なった。素手での体技では、衛兵はキルヒアイスの敵ではなかった。 「済みません。しばらく、休んでいて下さい」 物陰に衛兵を引きずり込み、ブラスターを取り戻して、彼は走る。違和感が激しい不安と恐怖。喪うべからざる者を喪うかも知れない、魂の根元を揺さぶるような激烈な恐怖に耐えて、キルヒアイスは走った。 目撃した人々は、自分の見ている光景の意味を、とっさに理解できなかった。 「ローエングラム侯、我が主君ブラウンシュヴァイク公の讎をとらせていただく」 沈黙を圧した声は、さして大きくはなかったものの、鼓膜が痺れるほどの沈黙を圧して、聴覚に痛みをさえ感じさせる厚みをはらんで轟いた。 さしものラインハルトも凍りついていた。眼前一〇メートル足らずで彼を睨み据えた死の砲口を前にして、とっさに手も足も動かなかったのだ。ミッターマイヤーやロイエンタールでさえ棒を飲んだように硬直しているだけだった。 「……!」 轟音。 噴き伸びた焔の舌がオレンジ色に宙を切り裂いて網膜に焼き付く。 「こ、この……」 迸った焔の刃は、しかし、大理石と黄金の生ける彫像を砕き損ねた。 装甲車や単座式戦闘艇ですら一撃で破壊するハンドキャノンは、ただの一撃でラインハルトの身体を粉砕し、見分けもつかぬほどの肉片に変えて四散させてしまうはずだった。だが、僅かにそれた射線は、ラインハルトからほんの二メートルほどを隔てた壁面を打ち砕き、炎と黒煙、そしてセラミックスと木材、金属の細片を周囲に撒き散らした。 復仇の斬撃が虚しく壁面を穿ち、烈風と化しておのが顔面を撃ったとき、復讐者の口から迸り出たのは人間の声の形をした怨念の塊だった…… 乾いた音を立てて、何かがフロアに転がった。金属製の杖。まさにトリガーを引き落としかけたアンスバッハの首筋に命中し、ラインハルトを直撃するはずだった砲弾にむなしく壁面を抉らせたのがその杖だった。 怒りと絶望の叫びを上げて、アンスバッハがハンドキャノンを構え直す。その左腕を閃光が貫通した。 ハンド・キャノンがフロアを打つ金属音。 「ラインハルトさま!」 キルヒアイスだった。 ブラスターを取り戻し、広間に戻った瞬間、キルヒアイスの耳に飛び込んできたのが、アンスバッハの叫びだった。最悪なことに、アンスバッハは、彼とラインハルトを結ぶ直線のちょうど真ん中にいた。ブラスターを撃ち放てば、アンスバッハを貫通した射線は確実にラインハルトをも射抜いてしまう。 判断に迷う時間はなかった。 左右を見回し、すぐ脇に佇立していた初老の軍人の杖をひったくるなり、やり投げの要領で投げ放つ。杖を奪われた軍人がよろめき、膝を突いたが気にかけている余裕はなかった。 間半髪よりもっと際どいタイミングだった。 衝撃波でラインハルトがよろめき、姿勢を崩すと同時にキルヒアイスが放った射線はみごとにアンスバッハの左上膊を灼き、ハンドキャノンを床へと取り落とさせた。厚い絨毯を蹴り、至近距離からアンスバッハにブラスターの銃口を突きつける。 「動くな!」 「―――!」 左腕を押さえた無理な姿勢のままに、翻らせた視線が白刃と化してキルヒアイスの面上を斜めに薙ぐ。 暗赤色の昏い炎を宿した眼と、守るべきものを守り抜こうとする澄明な碧い光を湛えた眸が正面から視線をぶつけ合い、そして昏い炎はさらにどす黒さを増した輝きをはらんだ。 右腕が毒蛇の死の踊りそのままに躍り上がって我が胸元を狙うのを察し、キルヒアイスもブラスターを撃ち放つ。 閃光と閃光が交錯する。 不吉な白い光がわが身を貫く苦痛に、キルヒアイスの手からブラスターが離れ、フロアに転がった。人間の肉体が崩れ落ちる異様な不協和音と、軍用ブーツがフロアを拍つ響きが重なってキルヒアイスの耳の中で木霊した。 異様な叫びと、狂ったような笑い声。 「ブラウンシュヴァイク公、お許し下さい。この無能者は……」 「なにを言うか! この痴れ者が!」 ケンプの野太い叫び声。左腕と両脚、そして胸の中央をブラスターで撃ち抜かれ、右腕もケンプとビッテンフェルトに押さえつけられながら、アンスバッハは狂ったような笑い声を立てていた。 「しっかりしろ、キルヒアイス……医者だ、医者を呼べ!」 ミッターマイヤーの声が重なる。二度三度と視界が回り、キルヒアイスは大理石の床に広がった小さな真紅の池を目の当たりにした。苦痛が弾け、視線が低くなる。その時になってようやく、キルヒアイスは自分が床の上に両膝をついていることに気づいた。ミッターマイヤーが彼の身体を支え、傷口にハンカチを押しつけている。真紅に染まったハンカチから滴がしたたり落ち、床の上の血溜まりの上で弾けて、小さな紅い飛沫を上げている。 不意にミッターマイヤーを突きのけるようにして、豪奢な金色の髪がキルヒアイスの視界一杯に広がった。 安堵が、暖かな波のように全身を満たし、不意にキルヒアイスは全身から力が抜けていくのを感じた。 「ラインハルトさま……」 「キルヒアイス……」 「ラインハルトさま、ご無事で……」 「キルヒアイス……」 呆けたようにラインハルトは繰り返す。 「俺は大丈夫だ。傷一つない」 「……申しわけありません。危ない目にお遭わせ……してしまいました」 「ばか! なにを言う!」 いつもなら、周囲すべてを圧倒し、畏怖させる叫びが、この時は小さくかすれて、キルヒアイスの耳に届くのがやっとだった。蒼氷色の瞳がこれほどまでに弱々しく、寄る辺のない幼児のように無防備に、無力に見えた記憶はキルヒアイスにはなかった。 「すぐに医者が来る。こんな傷、すぐに治る。治ったら、姉上のところへ勝利の報告に行こう。な、そうしよう」 「ラインハルトさま……」 「医者が来るまでしゃべるな」 「宇宙を手にお入れ下さい」 「ああ……二人でだ、二人で手に入れるんだ。だから、しっかりしろ……」 声が遠い。辛うじて現実にしがみついていた意識が安堵で緩んだとたん、苦痛が強酸のように全身を浸食する。出血と共に、生命の力が一滴、また一滴と身体から抜け落ちていく。 「キルヒアイス、キルヒアイス! なぜ黙っている。返事を……」 大丈夫、あなたを残しては死にません……微笑もうとして、キルヒアイスは無駄を悟った。意識が苦痛に敗れ、闇の中に逃げ込んでいった。 「卿らの討議も、長いわりになかなか結論が出ないようだな」 「なにしろ、現在のところ我が軍にはナンバー1、ナンバー2がおらず、まとめ役を欠くのでな」 ロイエンタールの応答が鋭い言葉の槍となって投げつけられたが、オーベルシュタインの冷然たる無表情さの盾を貫くことはできなかった。 「ローエングラム侯のごようすは?」 「あいかわらずだ。病室からお離れになろうとしない」 アンスバッハが指輪に仕込んでいたレーザー・ガンのビームはキルヒアイスに重傷を負わせ、意識不明の重体に陥らせたが、致命傷を与えるには至っていない。とは言え、彼の回復を待っていれば黄金よりも貴重な時間が無為に費やされる。ラインハルトは、さすがにキルヒアイスの無事を聞いて虚脱からは回復していたが、心身の衝撃は大きく、直ちにオーディンに向かって何らかの行動を起こせる状態ではなかった。 「ナンバー2不要論も結構だが、ナンバー2とナンバー1が一心同体、互いを欠いては存在し得ないようなケースにまで、卿の持論を援用するのは木を見て森を見ずのたぐいでしかあるまい。違うか?」 「そのような議論を弄んでいる時間は我らにはないはずだが? キルヒアイス提督の回復を待っていたのでは、我ら全員、銀河の深淵に滅びの歌を合唱する結末に終わるだけだ、というのは卿の言葉だったと記憶するが?」 「では、参謀長にはよい思案がおありか?」 「ないでもない」 「ほう?」 「キルヒアイス提督の死去を公表する」 「おい!」 ビッテンフェルトが血相を変えて一歩を踏み出し、オーベルシュタインの胸ぐらをつかむ。 「そんなにまでしてキルヒアイスを排除したいのか、卿はS」 「キルヒアイス提督が暗殺された旨の発表を行い、同時に暗殺犯を卿らに捕らえてもらう」 「異なことを言う。ローエングラム侯を狙い、キルヒアイスを傷つけたのはアンスバッハではないか?」 「彼は手先の小物に過ぎない。真の主犯は別にいるということにする。大変な大物がな。その大物が裏でブラウンシュヴァイク公を指嗾して今次の戦役を起こさせ、ブラウンシュヴァイク公が滅びると同時にローエングラム侯をも葬ろうと企んだ。その結果、ローエングラム侯は死を免れたものの、腹心のキルヒアイス提督が暗殺者の手に掛かって斃れた。ローエングラム侯は、キルヒアイス提督の弔い合戦として、この大物に敢えて挑む決意をなさった……」 「卿の好みそうな筋書きだな」 半ば嫌悪、半ばは不本意ながらの感嘆を込めてロイエンタールが反問する。 「誰を首謀者に仕立て上げるのだ。大貴族どもはほとんど死に絶えてしまった。適当な人間がいるか?」 「立派な侯補者がいるではないか」 「誰だ?」 「帝国宰相リヒテンラーデ公」 のけぞったのはミッターマイヤーだけではない。居並んだ提督のほとんど全員が愕然とした視線で義眼の参謀長を取り囲んだ。 「いずれ……というより、門閥貴族連合軍が滅んだ以上、リヒテンラーデ公とは一瞬と言えども手を組み続けることはできない。いや、我らが門閥貴族と戦っていた間、リヒテンラーデ公は我らの足下に穴を掘るのに忙しかったはずだ。このまま時を与え、穴が十分に大きくなるのを座して待つのは最も愚かな行為だ。公がブラウンシュヴァイク公と結託し、アンスバッハの背後にいた証拠など、あとからいくらでも作れる」 「では、なぜ、キルヒアイスが死んだなどと公表するのだ」 キルヒアイスがラインハルトの腹心であり、無二の親友であり、さらにローエングラム侯爵軍の事実上のナンバー2であることは、リヒテンラーデ公も十分に承知の事実である。キルヒアイスが目の前で惨殺されたとき、ラインハルトの受ける衝撃と悲哀の大きさについても認識を欠くということはないだろう。いや、もっと積極的にキルヒアイスの死でラインハルトが廃人同然の状態に陥っていると、こちらは非公式なルートで情報を流せばよい。 「つまり、相手にまだ時間があると思わせるための餌に、今度の事件を使うというのだな?逆に、リヒテンラーデ公に先手を許してしまう可能性の方が強いのではないか。策士、策に溺る……古諺を地でいくような無様さになるぞ」 ロイエンタールの言葉は露骨なまでの反感を露わにしていたが、正面から相手を否定しようとするものではなかった。いずれにしても、事態を打開できなければ、好むと好まざるとに関わらず、この義眼の男と彼とは一蓮托生なのだから。 「我々も子供ではあるまい。前門の虎に気を取られるあまりに、後門の狼を忘れるような愚かしさは、すでに幼年学校で卒業したと思っているが。帝都における我らの情報網も十分以上に細かい。それをかいくぐって宮廷クーデターなりを起こすには、リヒテンラーデ公といえどもそれなりの時間が必要だ」 「たしかに戦役開始五ヶ月では十分とは言えぬかも知れないが……リヒテンラーデの動きは押さえているのか?」 おおよそは……とオーベルシュタインは肯う。ここ半月以内というのが、彼の情報網の捉えたリヒテンラーデ公の動きだった。 「帝都駐留の地上軍と警備艦隊はモルト中将が掌握しているので、リヒテンラーデ公は実行兵力を領地から呼び寄せねばならない。ここ半年ばかりの間に、叛乱鎮圧の祝勝式典がいくつか予定されている。徐々に兵を集めているようだが、あと半月ほどはまだ十分とは言えまい」 「では……」 「ローエングラム侯も、その部下の諸将も全員健在というのでは、リヒテンラーデ公もチャンスは今しかない、多少の準備不足には目をつぶって立ち上がろうと思うのではないかな。キルヒアイス提督が凶弾に斃れ、衝撃の余りローエングラム侯は悲嘆の淵に沈んでおられる……となれば、今しばらくの時を費やして計画の完璧を期すだろう」 「卿を敵に回したくはないものだ、勝てるわけがないからな」 嫌悪に満ちたロイエンタールの言葉を、オーベルシュタインは完全に無視した。 「まず、オーディンに向かってキルヒアイス提督の死去を伝え、同時にガイエスブルグから艦隊を進発させる。リヒテンラーデ公を逮捕し、国璽と皇帝の身柄を抑えるのだ。時間が稼げると言っても僅かでしかあるまい」 九月一二日。 ミッターマイヤー大将、ロイエンタール大将、および参謀長オーベルシュタイン中将の連名で、リップシュタット戦役戦勝祝賀会での惨劇と、ジークフリード・キルヒアイスの死が発表される。 FLTでオーディンのリヒテンラーデ公と対面したオーベルシュタインは、親友の死で動転する主君の様子を伝え、オーディンへ戻るまで今しばらくの時を請うと報告した。 「それは……ローエングラム侯にはさぞかし力落としであろう。ゆるりと静養なさって後、帝都へご帰還されるよう申し伝えよ」 満面の笑顔の裡に蠢いていた別の表情を、オーベルシュタインの義眼は見落としていなかった。 同日、オーベルシュタイン、メックリンガー、ルッツを残し、ミッターマイヤーとロイエンタールに率いられた二万隻以上の高速巡航艦隊がガイエスブルグを発した。彼らがオーディンに到達し、リヒテンラーデ公の一派を根こそぎに逮捕拘禁するのはこの一四日後。リヒテンラーデ公の宮廷クーデターは、キルヒアイスの死の報告がなければ、この前日に予定されていた。 「ラインハルト・フォン・ローエングラムは無二の親友を喪って茫然自失だそうだ。しばらくはまともに動けまい。念には念を入れ、もう一〇日ほど準備を整えよう」 その判断が、リヒテンラーデ公とその一派からすべての未来を奪う結末を招き、ローエングラム王朝への道を開いたのである。 ☆☆☆ ガイエスブルグで重傷を負ったキルヒアイスが、完全に回復してローエングラム元帥府に復帰したのは約半年後のことである。一時は軍務への復帰も危ぶまれるほどの重傷からみごとに恢復し得た影には、グリューネワルト伯爵夫人アンネローゼ自身による手厚い看護があったと伝えられる。事実、キルヒアイスに関する伝記や記録のいくつかは、この時期に『主席元帥から大公妃への求婚がなされた』、あるいはもっと露骨に『事実が生じた』などと伝える。ただし、一切の公式記録、特にラインハルト、キルヒアイス、そしてアンネローゼ自身の手になる記録には、そういった事実を伝えるものはなく、これらの書籍はただ単にうわさ話を超えるものとはなり得なかった。 戦後、ラインハルトはシュペーア伯フェルディナンドの功績を高く評して、彼の領有するノイストリエン星系を中心とした第一辺境軍管区司令官と上級大将の地位、またモーリッツには子爵号をもって報いた。一個艦隊強の兵力と、約二億人の居住する有人惑星星系がシュペーア伯の支配下に入り、さらに、第一辺境軍管区軍の根拠地として、旧大貴族が所有していたガルミッシュ・クラスの宇宙要塞が提供されたのである。 ただし、ノイストリエンブルク要塞の移動には、シュペーア伯爵家が移動のための費用を負担するなら、との条件が付けられていた。旧大貴族の勢力が必要以上に残存することを嫌ったオーベルシュタインの献策とも言われる。もっとも、彼が要塞の受け取り謝絶を期待していたとすれば、それは鮮やかな肩すかしを食うことになる。 モーリッツ・フォン・シュペーア・ウント・ノイエシュタウフェンベルク子爵は、フェルディナンドに謝絶を勧めたと伝えられるが、フェルディナンドは微笑って費用の負担に応じた。シュペーア伯爵家の財政を傾けた莫大な費用負担のもと、巨大な宇宙要塞はノイストリエンブルクと名付けられ、ノイストリエン星系の主星近くの公転軌道に定置された。ガイエスブルグ要塞のイゼルローン回廊進出とほぼ同時期の出来事だった。 1