動乱前夜 「一七〇〇光年?」 ロイエンタールは金銀妖瞳<ヘテロクロミア>を訝しげに細めた。 帝都フェザーン。 獅子の泉宮は、皇帝の家族が住まう皇宮と、帝国政府が置かれている政庁エリア(王宮)に分かれている。 ロイエンタールとミッターマイヤー。帝国の双璧と讃えられる二人の元帥が、久方ぶりに酒を酌み交わし合っているのは『新<ノイエ・>海鷹<ゼーアドラー>』。政庁エリアの一角を占める高級士官クラブである。 バーラト動乱終結後、ローエングラム王朝は旧帝国と旧自由惑星同盟の領有した宙域を六つの主要軍管区と、八つの辺境軍管区に分割している。そして、各軍管区に特定の人物の『色が付く』ことを嫌った軍務尚書により、これら一四の軍管区司令官は、僅かの例外を除いて定期的に交代する。 統帥本部総長として帝都への常駐を義務づけられているロイエンタールはともかく、宇宙艦隊司令長官たるミッターマイヤーは旗艦『ベイオウルフ』を駆って、主要な軍管区での艦隊演習に明け暮れる日々を送っている。帝国の双璧が、帝都で酒杯を交わす機会は決して多くはなかった。 この夜、双璧の間での話題になったのは、実証実験が近々に予定されている新型のワープ・エンジンだった。 「たかが新型ワープエンジンの試験のために、そんなに帝都から離れねばならんのか?」 「ああ、なんでもこのあたりは銀河系の中でも空間のゆがみがかなり大きいらしい。ワープ航法に直接の悪影響はないんだが、何しろ新型だからな。シルヴァーベルヒが念には念を入れろ、と主張したんだそうだ。万が一、新型のワープ機関の作動がこの空間のゆがみに悪影響を与えると何が起こるかわからんそうだ」 「ミッターマイヤー」 「なんだ?」 「やけに説明的なせりふだな」 「詳しくは俺も知らん。これもシルヴァーベルヒの受け売りだ。説明的になって当たり前だろうが」 「済まん。いや、なに、ちょっとその歪みというやつが気になってな」 「どう気になるのだ?」 長年の経験から、ミッタマイヤーはこういう物言いをするとき、親友の直感に囁きかけてくる存在があることを知っている。それが天使であったり、時には悪魔であったりするのだが、ロイエンタールの場合、天使の囁きを悪魔のうそぶきらしく言い換えたり、悪魔の声を天使からのお告げのように語ったりする。しかも、そういう時のロイエンタールの直感は“当たらなくてもいい方に当たる”傾向が強い。 しかし…… 「たとえば、女性の頭にウサギの耳が生えたり、夫婦者の性別が入れ替わったりするのも、その空間の歪みとやらで説明がつくのかな?」 「ロイエンタール……」 あきれかえってミッタマイヤーは親友の顔をまじまじと見つめる。 「どこからそういう冗談を拾ってきたんだ?」 「卿はもう忘れたのか? 奥方が悔しがっていたと聞いたぞ。卿に化粧する機会を逃したと言ってな」 「俺には女装趣味はないし、エヴァが俺に化粧したいなぞと言ったことはないぞ」 「おかしいな」 ロイエンタールは首を傾げる。 「エルフリーデは確かに俺が女になったのを見たと言ったが……」 「ロイエンタール!」 ミッターマイヤーの声が厳しさを増した。 「あの女をまだ飼っているのか?」 「飼うなどという表現には抵抗を感じるな、俺は女をペット扱いにする趣味はない」 「一体、卿は何のつもりだ。あの女は危険だ。危険すぎる」 「どうしろと?」 「さっさと金を与えて追い出せ、それしかあるまい」 「ほう……」 微かな揶揄に近い響きが、その声に込められていたかも知れなかった。 「卿からそのような忠告を受けるとは思わなかった。卿でも、他人の女は気になるのか」 「本気で言っているのか、ロイエンタール?」 「……」 膝を屈するに皇帝以外にあらず、と評されたロイエンタールが、半歩の半分でさえ譲る相手がいるとすればミッターマイヤー以外にはありえない。凄まじいと言っていいほどのミッターマイヤーの形相が、ロイエンタールを微かにでもうろたえさせなかったとすれば、それは事実の正確な叙述とは言えなかったに違いない。 「……分かっている」 「卿は分かっていない」 ミッターマイヤーの口調はいっさいの容赦という響きを欠く。 「俺は卿を責めているのではないぞ」 「ああ」 「分かっているなら、さっさと実行しろ。別にそのリヒテンラーデ公の縁者をホームレスにしてしまえといっている訳じゃあない」 食うに困らぬ程度の金を与え、後腐れのないように体よく追い払ってしまえ…そのフレーズを、ひどく苦しげな表情で吐き出すミッターマイヤーだった。応じるロイエンタールの顔がわずかに疲れたものになっていたのは、親友の心労への思いやりだったのかどうか。 「それも分かっている」 「では、何なんだ、一体?」 「実は俺にもよくはわからん」 「な……」 「ミッターマイヤー」 わずかに高さの低い親友の肩を、ロイエンタールの右手が軽く叩く。 「卿が俺を心配してくれていることは分かっている。心することは約束するが……」 「するが……何だ?」 「つまり……だな」 「おい、ロイエンタール!」 「まあ、聞け、ミッターマイヤー」 卿と俺は、あの金髪の覇者……まだ、ミューゼル姓を名乗っていた当時の皇帝に自分たちの未来を見、自身の将来のすべてを賭してきた。その選択は決して誤りではなかった。誤りどころか、これほどまでに的確な選択……先見の明を有していた自分たちが、史上まれにみる名将の名を冠せられるに何の疑いやある。 「俺はな、ミッターマイヤー、時々、夢を見るのだ」 ロイエンタールの口調はやや酔ったように響いた。 「どんな夢だ?」 「旧帝国の大貴族はほぼすべて滅び、自由惑星同盟もバーラト星系に僅かな余喘を残すのみ。フェザーンの黒狐も、地球教の狂信者もすべて身の程も知らぬ野望に自らを滅びの淵へ投げ入れた……と。吟遊詩人なら、今のローエングラム王朝の覇業を指して、そう謳うのではないか、とな」 何を言いたいのだ、とミッターマイヤーは口を挟まなかった。黙ってグラスのワインを口に運び、すでにからになっていたロイエンタールのそれに新たな一杯を注ぐ。 無造作に、しかし、多くの女性の視線を引き寄せて止まない巧まざる優雅さで、ロイエンタールはグラスをすいとすくい上げる。僅かな黄金色を帯びた澄明な液体を満たしたグラスを、蝋燭の光を模した赤みを帯びた照明にかざす。 「……だが、これこそ夢。夢の中の完璧さを俺たちは見ているのではないか。そう、時々俺は思う。逆に、夢の中こそが本当の現実というべきではないのか」 「言葉は正確に使え、ロイエンタール。本当の現実とは何だ? 本当だから現実であり、現実は本当だ。虚偽の現実や、本当の夢物語などがあるとでも言うのか?」 「俺は時々、夢を見ることがある。夢だと分かっているが、それが現実であるような、現実であって欲しい、しかし、同時に現実であって欲しくないと」 「ロイエンタール、卿は……」 ロイエンタールは聞いていない。 「夢の中で、俺はカイザーと対面している……」 「分かった」 詠唱するようなロイエンタールの言葉が、烈しい調子のうなり声に割って入られた。金銀妖瞳が驚きと不本意さを相半ばさせた表情を浮かべて、親友を凝視する。 「何だと?」 「それ以上、口にするなと言ったんだ」 「俺はまだ、何も言ってはいない」 「卿が見ているのは血の色の夢だ。卿には、ローエングラム王朝の宿将たる自覚はないのか。平和の無為さに耐えるのも、我々の務めと言うものだろう」 「それは違うな」 「なにが違う?」 「俺が皇帝の前に膝を屈し、忠誠を誓うのは、俺が皇帝に俺の及ばざるを見ているからだ」 黒い右目と青い左目が怪しげなかぎろいをたたえて、親友の顔を正面から射る。ミッターマイヤーも、ロイエンタールがただローエングラム王朝に対して無条件の忠誠を誓う存在ではないことをおぼろげながらに察してもいるのだ。 軍事と政治の両面において、ラインハルトはこれまで完璧な皇帝であったし、キルヒアイス主席元帥と皇妃ヒルデガルドの補佐は、僅かの隙をさえラインハルトの治世に与えなかった。 だが……ミッターマイヤーはほんの少し、心の中に隙間風に似たものを感じる。 本当に奇跡のようなものだ、現在のローエングラム王朝の平和というものは。 古くはベーネミュンデ侯爵夫人との確執に始まり、『リップシュタット戦役』の末期、ガイエスブルグ要塞でのラインハルト暗殺未遂事件、『神々の黄昏』作戦末期でのヤン艦隊との死闘。ラインハルト即位後でさえ、キュンメル事件、フェザーン遷都直後の柊<シュテッヒパルム>館<・シュロス>焼き討ちと『ルビンスキーの火祭り』、そして『ヴェルゼーデ仮皇宮』襲撃。 ラインハルトやキルヒアイス、果ては皇妃ヒルダや皇姉アンネローゼまでが間一髪で生命の危機を免れた事件だけでも片手では足りない。もし、万が一にでもラインハルト自身や、キルヒアイス、アンネローゼ、ヒルダ、アレク皇太子らの一人でも生命を落とすような結果になっていたとしたら…… 現在の平和は本当に薄い紙一枚の上に成り立っている。敢えて『虚偽の現実』とは言わないまでも、悪夢との間にわずかに紙一重を挟んだだけの現実なのかも知れない。失うべからざる人を失った時、ラインハルトといえども完璧な皇帝となり得ただろうか。なり得たとしても、完璧たり続けられただろうか。 疾風ウォルフ<ウォルフ・デア・シュトルム>の背を僅かながら粟立てさせた思いがそれだった。 「なかなかいけるな、この白は……」 話題を逸らすように、ミッターマイヤーはグラスを空ける。 ワインのラベルに目をやり、ラベルに記された、産地を示す文字をたどった。 「ヴェスターラント…四二二年か」 その名前が何かしらの感慨を呼ぶ、ということはなかった。 「ああ、ブラウンシュヴァイク公の旧領地だ。なかなかいいワインを出している。土地がいいらしい―――それでその新型ワープ機関だが、どういう代物だ?」 『神々の黄昏』作戦に先立って、当時の科学技術総監シャフトが要塞移動用の新型ワープ機関を提案したことがある。ラインハルトはシャフトの提案を受け入れてガイエスブルグ要塞を移動要塞に改造し、ケンプに委ねてイゼルローン回廊へ侵入させたのだ。イゼルローン要塞の要塞主砲射程ぎりぎりに定置されたガイエスブルグ要塞は、その後の『神々の黄昏』作戦でイゼルローン要塞の戦略的な重要度を大きく削ぎ落としたばかりでなく、兵站拠点として重要な働きをするに至ったのだ。 もっともシャフト自身は間もなく多数の収賄容疑で逮捕され、科学技術総監と上級大将の地位を二つながらに失っている。辛うじて、ガイエスブルグ移動要塞改造の功績で死一等を減ぜられ、今はいずれかの辺境にある流刑惑星に収監されている。 「今、帝国と帝国軍に最も必要なのはより小型でより効率のいいワープ機関なのだからな。あれと同工異曲のものなら、あまり実用性はない」 「ちょっと違う」 「どう違う?」 「ワープ航法を行う部分には特に新味はない。動力部分の改良だそうだ」 「動力部分?」 「―――反物質を利用する対消滅炉」 静かなピアノ演奏と、さして多くもない高級士官たちの醸し出すざわめきを縫って耳に届いたミッターマイヤーの声は、まるでラウドスピーカーを介したかのようにロイエンタールの聴覚を強打した。 「―――それは確かに出力は桁違いだろうが……ただエネルギー量が増えれば性能が上がると言うものでもあるまい。ワープ航法装置そのものにも改良が入っていなければならんと、俺は思うが……」 「そういわれてみれば、確かに動力関係の部分にもそれなりの技術革新があったとは聞いている。だが、俺たちは技術屋ではないぞ、ロイエンタール」 新型の動力炉と、これまでにないエネルギーによって前例のない超長距離航行を可能にする新型のワープ機関は、その出力の巨大さゆえに試運転には慎重さが要求された。フェザーン回廊を旧帝都側へ一〇〇〇光年以上の距離があり、通常航路から大きくも離れた、オータン星系が実験場に選ばれたのもそんな理由だった。 オータン星系には六つのガス状惑星があり、予定実験宙域に最も近い位置にはバジリカと呼ばれる惑星がある。碧い色彩を帯びた美しいガス状惑星であり、『青のバジリカ』なる異名を持つと言う。 「それはそうだが……」 ワインのボトルを傾け、それがすでに空になっていることに気づいたロイエンタールは軽く舌打ちをする。 「もう終わりか。卿さえ良ければ、もう一本どうだ。せっかく卿が帝都に帰ってきたのだ。俺のおごりだ」 「飲みたいのは山々だが、今日はほどほどにして帰ると言ってある」 「奥方にか?」 隠そうとして隠し切れぬ嘲笑に似た響きが混じる。ただし、数年前、奇妙な居候のようなかたちでロイエンタール邸に居着いたあの“女”が現れる前に比べると、その響きには虚無の色合いが薄い。少なくともミッターマイヤーにはそう思える。一頃に比べ、あの“女”を追い出せと言う言葉に迫力を欠くのもそのせいなのだが。 「ああ、エヴァと……」 人の悪そうな笑顔を浮かべようとして明らかに失敗したらしい表情で、ミッターマイヤーは親友を正面から見据える。 「フェリックスにな」 「……!」 ロイエンタールが手にしていたグラスが大きく震え、白ワインが跳ねてテーブルクロスに小さな染みを作るのを目にして、ウェイターがほんの僅か眉をつり上げた。無論、双璧の視界の外だったが。 「最近は獅子の泉宮にも伺候している。アレク殿下にも気に入って頂いている。いい加減に意地を張るのは止めろ、ロイエンタール。負けなら負けとさっさと認めるのが卿の卿たる所以ではなかったのか」 「……ミ、ミッターマイヤー……」 「実はな、アレク殿下の立太子式の介添え役も仰せつかっている。卿一人のためだけではない。フェリックスのためにも、ひいては俺やエヴァのためにもあの女のことは決着をつけてくれ」 「卿のようにすべてを一直線に割り切れれば、どれだけ楽なことか……」 「なら割り切ればいい。卿ほどの男にそれができんとは、俺には思えん」 「分かってはいるのだ。歪んでいるとはな。だが、ミッターマイヤー、俺はカイザーを畏敬している。ローエングラム王朝の重臣としての矜持に悖<もと>るようなことは一度もしたことはない」 「ならば、僅かでもあのオーベルシュタインにつけ込まれるようなことをするな。せっかく静かに収まっている池に石を投げ込むのは無用に無粋な行いだぞ」 ロイエンタールは返事を省略する。ミッターマイヤーの言葉を聞いていないわけではなく、またその言葉に同意できないと言うわけでもないようだった。 近い内の再会を約して、双璧は握手を交わす。いささかも酔いを見せない足取りで『新<ノイエ・>海鷹<ゼーアドラー>』を後にする疾風ウォルフの背を見送り、金銀妖瞳の元帥は新たに取り寄せた白ワインの煌めきに、色の異なる左右の視線を据えていた。 「ロイエンタール元帥……」 不意を打たれたと言う様子ではなかった。ロイエンタールの不意を打てる人物が存在するとすれば、宇宙すべてを上げておそらくは四人。皇帝ラインハルト、主席元帥キルヒアイス、ミッターマイヤー帝国宇宙艦隊司令長官、そしてヤン・ウェンリー元元帥。ヤンが軍務を退いて久しい現在では、折られるべき指は三本ということになる。 なみなみと注がれたワイングラスを弄ぶ手を止め、ロイエンタールが視線を巡らした先に、ギリシア彫像のような筋肉質の男性の容貌があった。 「卿は?」 「シューマッハ。レオポルド・シューマッハ准将です、閣下」 「閣下はよしてもらおう、准将。久しぶりに親友と酒を酌み交わしたあとだ。ほう、卿がシューマッハ准将か。皇帝誘拐の手際は聞いている。一度、会って話をしたいとは思っていた」 「光栄です、元帥。小官も、一度、元帥とはお話をしたいと思っておりました」 あえて相手の古傷を抉るような“皇帝誘拐”の言葉にも、眉一つ動かさない態度がロイエンタールの胸の裡で賞賛の小さなあぶくを弾けさせた。 「近々、第一辺境軍管区方面、対宇宙海賊先任参謀の任を頂き、赴任する予定になっております」 問われる前にシューマッハはそう語った。 「第一辺境軍管区か。シュペーア伯爵領だな?」 旧帝国領の辺境宙域の中でも最も開拓が進みつつある星域である。開発が急速に進んでいるため、シュペーア伯に与えられた軍管区艦隊だけでは治安維持が難しくなってきていると伝えられていた。 「左様です。ここのところ、海賊の活動が活発化しておりますし、小官の派遣も、海賊の猖獗鎮圧に心を痛められている皇帝陛下のご意向があると聞いております」 「確かにな……で、卿はどう思うのだ。伯爵領での海賊活動に関して」 「小官はモチーフの全貌を語り得るほどの情報を持ってはおりません。寧ろ、元帥から差し支えない範囲であればお聞きしたいと思っているぐらいです」 「考えすぎだな、准将。俺は一人で情報を独占しなければ権力の実感を味わえないほど、心の狭い男ではないつもりだ。俺が知っていて、公開して差し支えない範囲の情報なら、卿の手元に届けられていると考えてもらっていい」 「先帝エルウィン・ヨーゼフ陛下を誘拐するおり……」 シューマッハはいささかも言いよどまなかった。 「小官らがボルテック弁務官の手引きを受けたことはご存じと思いますが?」 「ああ、知っている」 「ボルテック弁務は全体のモチーフを決して小官等にはさらけ出して見せはしませんでした。彼が何かを隠していることは、しかし、すぐに分かりましたし、そうやって使い走り同様の扱いを受けるのは決して快いものではありませんが」 「おかしなことを言うな、准将。まるで、俺や……軍務尚書が卿にすべてを知らさぬままに死地へ送り出そうとしているように聞こえるぞ」 「いえ……元帥や、尚書閣下を非難するつもりはありません」 シューマッハは言う。第一辺境軍管区での宇宙海賊活動の活発化は、それ自体、何の裏もないような現象に見える。実際、シューマッハが集めた情報以上の情報が統帥本部や軍務省に集まっていないとすれば、単にシュペーア伯爵家の支配力が衰え、無法者がそれに乗じただけという見方さえできる。実際に、そう解釈する方が素直な状況分析とさえ言えるのだ。 「卿は、臭い、と言うのだな?」 「小官もそれなりに長く、戦場で硝煙の臭いを嗅いで生きてきております。ロイエンタール元帥が、第一辺境軍管区での宇宙海賊猖獗に関して小官の存じている以上の情報をお持ちでないとすれば、実際に裏はないと信じて良いのかも知れません。しかしながら、小官も表通りばかりを歩いてきたというわけではありませんから」 「裏がある。警戒せよ、という卿からの忠告と受け取っておいていいのかな?」 「残念ながら……」 男性的な容貌が照れ笑いに緩んだが、返ってきた言葉は昂然たるものだった。 「そこまで断言できるのであれば、小官も今頃は元帥府に名を連ねているでしょう。いずれにしても、何か『宇宙が騒がしい』思いを抱いた古参の士官がいた、とご記憶いただければ、と」 「卿がそういうからにはそれなりの根拠があるのではないか。差し支えなければ、聞かせてくれ」 「申し上げたとおり、『宇宙が騒がしい』気がするだけなのですが……敢えて申し上げれば、この宙域で報告されております、遭難事件です」 「遭難だと?」 単独で航宙している中小の貨物船が行方不明となるのはたいてい宇宙海賊による襲撃か、さもなければ宇宙船そのものの故障に起因する。シューマッハが調べた限りでは、ここ一年ほどの間に一〇件余り、第一辺境軍管区の駆逐艦に護衛された大型貨物船や旅客船が行方不明となり、そのすべてが原因不明である。 「特に不審なのは、三ヶ月前ばかり前に起こった遭難事件です」 シュペーア伯の後継者アーヤクス卿の乗船『リュッツオー』である。駆逐艦どころか、重巡航艦二隻が護衛に当たっていたにもかかわらず行方不明となり、二ヶ月後、無惨に破壊された『リュッツオー』の緊急脱出艇が発見された事件だった。アーヤクス・フォン・シュペーアも発見されず、シュペーア伯家は後継者を失うという大きなダメージを受けた。 「行方不明になるほんの一時間ほど前に、アーヤクス卿に個人通話が入ったことが確認されています。発信者は不明ですが……緊急連絡も何もなく、いきなり一切の連絡が切れています」 これは他の未解決の一〇件と共通する特徴だとシューマッハは指摘する。 「見事な調査だ」 ロイエンタールは頷く。 『宇宙が騒がしい』……抽象的に過ぎる表現だが、三〇代にして百戦錬磨の戦歴を誇るロイエンタールには素直に首肯できる言葉だった。戦場で十分な情報が入手できることの方が珍しい。ロイエンタールやミッターマイヤーが戦場で常勝を誇り得たのも、ほんの僅かな、それも不確か極まる情報の中から真実の原石を見つけだす、類い希な資質のゆえであり。それを最もよく知る者もまた、彼ら自身に他ならない。 「では、シューマッハ准将、卿の言葉は忘れまい。ミッターマイヤー元帥にも話をしておくし、メックリンガーには第一辺境軍管区の遭難に関してさらに調査を進めるよう命じておこう。それにしても見事な調査だ。だてに皇帝を誘拐した男ではないな」 「恐縮です、閣下」 「帰ってきたら、辺境の話を聞かせてくれ。帝都に居座っていると、前線が見えなくなって困る。他の連中にしてもそうだろう。武勲を祈る」 「光栄です、元帥」 グラスの縁が触れ合う澄明な音色。 無論、ロイエンタールもシューマッハもまだ欠片ほどの予感もその胸には抱いていなかった。 それが、ロイエンタールがシューマッハと酒杯を交わした最初で最後の機会となるだろうなどどは。 ☆☆☆ 「―――?」 書類を決裁する手を止めて、ブルックドルフ司法尚書は不審そうに画面に見入った。 皇帝ラインハルトが積極的な権限委譲を進めたおかげで、彼の負担は、ラインハルトが玉座に就いたころとは比較にならないくらいに軽くなっている。週に一度は確実に休日を取れるようになったし、大きな事件さえなければ年に何度かの長期休暇さえ楽しめるのだ。 この日、ブルックドルフ司法尚書が受け取った報告書は、アントン・ヒルマー・フォン・シャフトの脱獄を伝えるものだった。 「シャフトが……今頃、脱獄とは」 帝国宰相なり皇帝なりに報告を上げるべきか……ブルックドルフは考え込む。 シャフトが反ラインハルト陣営に一度でも属した経歴を持っていれば、ブルックドルフはただちにキルヒアイス帝国宰相に報告を上げただろう。しかし、シャフトが地位を剥奪され、投獄されたのは、長年にわたる涜職の罪を問われたからであって、ラインハルトに敵対したからではない。 ブルックドルフはシャフトの年齢を思った。すでに六〇も半ばを過ぎている。人生の大半を帝国軍技術部門のトップとして過ごしてきたシャフトにとって、獄の中の数年は数十年にも感じられたのではないか。 「宰相の手を煩わせるまでもないか」 呟き、ブルックドルフはシャフトの追跡と捕縛を命じる司法尚書命令書に電子サインを入れる。大物には違いないが、脱獄囚の一人に過ぎない。整備されたローエングラム王朝の治安システムならば日ならずして、シャフトの短い“娑婆”での生活に終止符を打ってくれることだろう。 ―――だが…… ブルックドルフの楽観に反し、宇宙の深淵に溶け込みでもしたようにシャフトの行方は杳として知れなくなる。その後、半年以上の捜査にも関わらず、シャフトの行方に関する情報は、治安登極の触角には触れてこなかったのである。 ブルックドルフはシャフトの件に長くは拘泥していられなかった。新帝国暦一〇年が明けるとほとんど同時に、バーラト自治星系政府からはニコラス・ボネの捜査依頼が届いた。ボネはかつてのトリューニヒトの腹心の一人であり、失脚後も一定の勢力を保持していたが、地球教徒と結んでテロの手引きをしていたことが判明、間一髪捜査の手を逃れてバーラトから姿をくらましていた。 『ボネの身辺捜査の結果から、アロトヤ・イニエモフなる人物が大主教を名乗り、地球教の勢力復活に暗躍している旨が判明した。地球教はサイオキシンに類するきわめて悪質な習慣性麻薬をその資金源として新たに開拓したものと思われる。ボネは、自らの事業を、地球教徒による麻薬密売の隠れ蓑として提供し、その売り上げによって政界復帰を試みていた。一方、地球教徒はボネの事業組織を軸に、自治政府部内への浸透を図っていた』 バーラト政府からの連絡を前にブルックドルフも思わず唸った。 ハイネセンの地球教徒の大半は一網打尽にされたが、間一髪でイニエモフとボネは司直の手を逃れたのである。 『地球教徒が皇帝に対し、不敬の企てを目論んでいた可能性もあり。帝国政府による警戒と、イニエモフ、ボネ両名捕縛へのご協力をお願いしたい』 バーラト政府からの要請はそう結ばれていた。 帝国宰相の裁量のもとに、司法省と帝国軍警務本部、国防情報局が参画するプロジェクト・チームが組まれ、対地球教徒への本格的な捜査が開始されたのは三月のことである。ただ、こちらもまだ、地下に埋もれた暗黒の地下茎ともいうべき動きの詳細を察知するには至っていない。 一見、安穏な平和を謳歌するかに見えるローエングラム王朝だったが、その施政者たちが『庭園に忍び込む毒蛇を捕らえ、雑草を刈り取る』作業からは決して解放されていないのもまた事実だった。 そして、一〇年五月。銀河帝国は獅子帝の正式な後継者を迎えることになる。 1