皇太子アレクサンデル 抜け上がったような蒼空の高処から降り注ぐ陽光が、地表隅々をくまなく照らし上げている初夏、あるいは晩春の朝だった。新帝国暦一〇年五月三日、ローエングラム王朝銀河帝国は、その歴史において最も重要な宣言を発した。 一つは、前年末に公布された帝国憲法の正式な実施である。もとより皇帝親政を基本理念に据えたこの憲法は、ただちに急進的な共和主義者の『憲法の皮をかぶった専制主義者の戯言』との非難の的となる一方、皇帝ラインハルトを崇拝する人々からは、『無用に皇帝<カイザー>の権限を掣肘するだけで、百害あって一利のない愚法』との罵声を投げつけられてもいた。無論、これらの批判に対してラインハルト自身はわずかに眉を顰めただけでとりあおうとはしなかった。 「皇妃<カイザーリン>……」 皇宮では名前で呼ぶのが普通になっているラインハルトだが、公務で王宮に共にあるときにはこちらの呼び方が普通だった。 ラインハルトに示された書簡を一読して、ヒルダは小さく頷いた。 「これはヤン・ウェンリーからのメッセージ……だろうな」 「ええ。そう思いますわ」 バーラト自治政府のホワン・ルイ評議会議長からの書簡だった。曰く『人類にとっての巨大な一歩を祝し、一歩を踏み出しせしめた皇帝ラインハルト陛下の英断に衷心よりの讃辞を呈する』 「巨大な一歩と評してくれたか、あの男が」 「微妙な言い回しですわ」 「ほう……」 蒼氷色の瞳が我が意を得て心地よげに微笑む。 「皇妃もそう思うか。巨大な一歩として讃辞を呈しておいて……」 「まだ一歩目だと、批評を潜ませる……ヤン元帥らしいメッセージですわね」 言い差した皇帝の言葉を、ヒルダが引き取る。ラインハルトは、水晶を透かして煌めきわたるような笑顔で応じた。 「戦場で予に膝を屈しなかったのはあの男だけだ。それに、予の前で予の生き方だけが、宇宙のすべてのあり方を解く唯一の方程式ではないとほざいたのも、あの男だけだったな」 彼に自治を認めさせ、いわゆる『議会制民主主義』の小さな灯火を維持することを認めさせた。ラインハルトがヤン・ウェンリーを評価するのはまさにその一点だった。 「予には『議会制民主主義』なるものの価値はよく分からない。しかし、ヤンを初めとして一〇〇万を超える将兵が自分の意志で戦いに参加し、予と予の将帥たちに立ち向かってきたのは、その『議会制民主主義』を守るためだ。一〇〇万の人間が自ら死地を選んでまで守ろうというのであれば、『議会制民主主義』なるものに価値を認めるにやぶさかではあるまい」 「バーラトを優遇する必要はない」 だが、同時にラインハルトは言う。産業保護のための輸入関税、常に不足気味の食糧輸入に対しても価格上の優遇措置はともに、一部を除いてラインハルト自身によって却下された。さらにガンダルヴァ星系には『ガンダルヴァ軍管区司令部』が配置され、数千隻の帝国軍艦隊が常駐する。 「甘やかされた環境からは何も生まれぬ。ヤンの言うとおり、民主主義と称するものが、ローエングラム王朝が病み衰えたときに、再生への手段となってくれようと言うのであれば、多少の逆境程度で衰亡するものでもあるまい。また、少々手厳しく扱われた程度で滅びてしまうようなものなら、敢えて維持していく意味などありはすまい」 ラインハルトの言葉は辛辣だったが、正鵠を射てもいる。ラインハルトの価値観の苛烈さは、他者にもそれを要求する。真に維持し続けるに値するなら、身を以てそれを証明してみせよ、と。 キルヒアイスの提案もあって、バーラトの和約に含まれていた安全保障税支払いの条項は撤廃された。その一方で、ガンダルヴァ軍管区艦隊が管轄しない、一定領域の商業航路の安全保障もまた、バーラト政府の責務とされたのである。バーラト自治政府は、航路保障の目的のもとに戦艦や航宙母艦といった大型艦を保有する権利を得たが、有り体にはそんな大型艦を建造し維持する余裕はなく、また宇宙海賊に対しては巡航艦の方が有効である。 譲歩と見せて、一歩も譲らない。ラインハルトだけではなく、外交の辛辣さではキルヒアイスも劣るものではなかった。時に苛烈に過ぎるラインハルトの施政を、穏やかなやり方で民衆に受け入れさせるのがキルヒアイスのキルヒアイスたるゆえんだった。 与えられた辛辣極まる政治的環境の中で、バーラト自治政府が小さな失態もなく統治を続けていられる影には、いわゆる『ヤン・ファミリー』の力が預かって大きなものがある…あるいは過大評価かも知れないが、ラインハルトはそう評価しているし、ヒルダも彼の判断を支持しているのだ。 「二歩目以降はアレクにやってもらうことにしよう。予が何もかもやってしまって、アレクが退屈のあまりに暗君になってしまってはかなわない」 「ええ、そうですわね」 今ひとつの重要な宣言。それが、アレクサンデル・ジークフリードの正式の立太子だった。万一にも皇帝不在の事態が生じたとき、正式に皇帝から後継者としての承認を受けた人物が国政を代行する。それが皇太子であり、憲法の実施と同時にアレクの正式な立太子はどうしても必要な手続きだった。 とは言え、過度の華美さを嫌うラインハルトであり、彼の閣僚たちもよくそれを心得ていた。幼年学校生徒によるマスゲームや、機動歩兵師団による分列行進などの式次第はことごとく却下された。 フェザーン駐在の高級士官と官僚列席の中で、アレク皇太子は父ラインハルトから皇太子杖を授与される。その後、アレク皇太子は皇帝ラインハルト、皇妃ヒルデガルト、および万一の場合の摂政に擬されているキルヒアイス主席元帥とともに、一般将兵、市民の祝福を受ける。当初、皇太子杖授与の式場は、ホテル・シャングリラのパーティ会場が予定された。これはラインハルトとヒルダが婚姻の誓いを交わし合った、まさに同じ場所に他ならなかったのであるが、さすがにこれは後に変更になり、獅子の泉宮の“黄金獅子の間”が会場に選ばれた。 「いかに何でも、これでは吝嗇に過ぎるのではないか。折角の式典なのだから、もう少し費用を注ぎ込んでもよいのではないか」 当然、そのような声も挙がらないでもなかった。皇室の主宰する式典そのものは一つの巨大イベントであり、それに注ぎ込まれる巨額の費用は市場を活性化させ、景気を浮揚させる働きを持つ。ゆえに過度に質素な国家式典はかえって忌まれる場合がある……のだが、この場合は、ラインハルトへ向けられる『吝嗇<けち>』なる非難の声は小さかった。 憲法という国家の大綱を定めるに伴い、実際の法令の大幅な変更と、それに対応するシステムの改編は避けられない。ここ半年ばかり、憲法実施への対応、いわゆる『憲法特需』とも言うべき巨大な需要が帝国を覆っていたのである。そして、国家を効率よく統治していく上での投資を惜しむような吝嗇さとは、現皇帝は完全に無縁だった。 「銀河帝国皇太子アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム殿下、ご入来!」 式部官が高らかにその声量を誇示する。同時に帝国国歌の旋律が室内を満たし、左右に列をなして佇立した文武の高官が、歩み入ってくる人物を敬礼で迎える。帝国軍士官候補生の白の礼服に身を固め、やや顔面の筋肉を硬直させて歩み入ってくる少年の姿に、最初、微笑のさざ波が揺れ、それから小さな感嘆のどよめきが音もなく室内を席巻する。歴戦の提督達は、まっすぐな視線を玉座に座す父に向け、緊張しきった様子で歩を進めるアレクの姿に、すでに七歳の少年とは思われぬ威を見て取っていた。 「どう思う、アレク殿下を?」 囁いたのはミッターマイヤーである。 「人物の鑑定に関する言葉を口にするにはいささか場所がらが相応しくあるまい」 応じるロイエンタールの口調は冷ややかだった。 「俺の言いたいのは、なかなかに堂々となさっている。血は争えぬということだ」 「血か……」 ロイエンタールは唇をゆがめ、それから慌てたように視線をそらせる。アレクのすぐ後ろに付き従う、これも六〜七歳と見える綺麗な茶褐色の髪の少年に気づいたのだ。 「なにを目をそらしている、ロイエンタール?」 「……ミ、ミッターマイヤー……」 「堂々としている。血は争えぬ、違うか?」 「……」 戦場で我に倍する敵に包囲されても眉一つ動かさない金銀妖瞳<ヘテロクロミア>の元帥が表情を歪ませているのに気づいたのかも知れない。彼らと僅か離れて佇立する半白の髪の男が、微かに視線を走らせ、唇に微かな嘲笑を刷いたように見えた。 瞬間、雷光を帯びた金銀妖瞳が、靄を漂わせるような義眼を正面から見据え、一瞬のちには歩み入ってくる二人の少年に視線を転じた。 何かに気づいたのかも知れない。茶褐色の髪の少年が頭<こうべ>を巡らせた。真っ青な空の色の目が、金銀妖瞳の瞳を真っ正面からとらえた。少年とロイエンタールの視線は、この時、確かに正面からぶつかり合い、互いを見つめ合っていた。 極小の時間の後、少年が先に視線を離し、先をゆくアレクの後ろ姿に目を戻した。 「……?」 ある種の期待が籠もっていたかも知れない。ミッターマイヤーの双眸が親友の表情を過ぎり、そして失望と共にそらされた。金銀妖瞳の両目は、皇帝に歩み寄っていく二人の少年を追ってはいたが、浮かんでいたのは冷徹なまでに乾ききった無表情さでしかなかったのだ。 文武の高官の列を、それなりにきびきびした歩調で歩み抜けた二人の少年は、壇上の『玉座』に座す皇帝の前に進み出ると、そこで恭しく片膝を折った。 頷き、ラインハルトが立ち上がった。風はなかった。その挙動に従って波打ちながら煌めきわたる黄金色の髪から光の粒が舞い散って、ラインハルトの長身を覆い包むかに見える。 「アレクサンデル・ジークフリード」 大きくはなかったが、凛と張りつめたその声は居並ぶ一同に、物理的な打撃をすら感じさせるに十分だった。ごく僅かの例外…オーベルシュタイン、ロイエンタール、そしてミッターマイヤーと言った帝国の最高幹部…を除いて、一同が一斉に跪いて頭を垂れる、打ち寄せる波に似た騒音が一瞬、演奏される国歌の旋律を圧倒した。 「汝を予の後継者として、銀河帝国皇太子に任ずる」 一瞬、アレクが泣き出しそうに顔をゆがめたように見えたらしい。ヒルダの顔色がほんのわずか変わったようだった。 「……恐れ入ります」 次の瞬間、まだ幼さをたっぷりと残した声が列席者の耳朶を打つ。虚をつかれた驚きに似たざわめきが広間の一角から揺らぎ立った。幼い……まだ八歳にも間のある少年、幼児と呼ばれても違和感のない稚さながらも、明らかに父のそれに通じる凛然とした響きが一同を、あるいは驚かせ、あるいは大きく頷かせしめたのだ。 「皇帝陛下の名を汚さぬよう、陛下を嗣ぐ者として相応しい皇太子となるよう……」 「……?」 “研鑽に務める所存です”というせりふが続くはずのところで、アレクはぐっと絶句する。もともとラインハルトでさえ“これは難しすぎる言い回しではないか”と指摘するようなせりふ回しだったが、宮内省の式部官達が一致して皇帝に抵抗した。過去の事例を調べてみても、立太子式ではこれに類する言い回しで皇太子が皇帝に応じている、と。 アンネローゼが評したように『光年以下のことには興味のない』ラインハルトであって見れば、彼の一生の内に一回行われるかどうかと言う立太子式での式次第の改革などに割くべき力を見いだせないというのも本音だった。それが、たとえアレクに年齢相応以上の努力を強いる結果になったとしても。 広間の後ろの方でざわめきが広がり、アレクの沈黙が長引くに連れ、血相を変えて足早に歩き回り、囁き交わす式部官達の数が増える。もっとも、彼らの血の気の失せた顔色など、この時のラインハルトの視野の外だった。 アレクの顔が真っ赤になり、必死の表情で父の顔を見上げてくる。 ラインハルトの表情が微かに崩れる。怒りではなく、これはあまり豊かとは言えないユーモアの感覚を刺激されたときにだけ見せる、吹き出しそうになる笑いを抑える表情。口の端に、至近距離からだけ見える笑みを湛えて、ラインハルトは息子に頷きかけた。 ほっとしたように、アレクは沈黙の帳から勢いよく走り出てきた。 「一生懸命、頑張ります!」 再び広間の後ろで式部官達が失神しそうに仰け反る。ラインハルトは一切を無視した。炎を宿した蒼氷色の双眸が、深い碧の瞳を覗き込む。ほんの僅かもひるみを示していない幼い瞳が、銀河の支配者の視線を真っ向から出迎えた。 「その言やよし」 大きく頷き、そしてラインハルトは皇太子杖をまだ幼い息子に差し出した。 「予の後を追うことはない。そなたが自らのあるべきと思った姿をこそ懸命に追うがいい。懸命に、だ。懸命さを失ったとき、宇宙はそなたに牙を剥くだろうことを心するがいい、アレクサンデル・ジークフリード」 「はい、ファー……皇帝陛下!」 「ここに、アレクサンデル・ジークフリード皇子は、銀河帝国皇太子に叙せられた!」 宮内尚書のベルンハイム男爵が高らかに声を張り上げた。 ラインハルトの結婚式の時は、皇帝自らに『落ち着け、卿が結婚するわけでもあるまい』と揶揄された宮内尚書だったが、この時の宣言は見事な響きを帯びて広間を圧した。すでに老齢に達しているベルンハイムは、立太子式を花道として後任をヴァンデルフェルト子爵に譲る旨をすでに皇帝に申し出ているのだが。 同時に武官を讃える勇壮な音楽がこれに続く。 「我が皇太子アレク殿下、万歳< ジーク、アレク・デア・マイン・プリンツ >!」 歓声と言うよりも怒号に近い。『生涯一艦隊司令官』を標榜するオレンジ色の髪の猛将、ビッテンフェルト元帥の上げる叫びは、黄金獅子の間の天井を震わせ、列席者の聴覚を強烈な殴打をもって遇する。 「あれはやはり怒声だ」 という非難の声もあらばこそ、ビッテンフェルトはさらに『皇帝陛下万歳、皇妃陛下万歳』と咆哮を連ねる。列席した武官がまず彼に追随し、ついで文官たちも興奮に巻き込まれるままに『皇太子殿下万歳、皇帝陛下、皇妃陛下万歳、帝国よ、永遠なれ!』の叫びにこれに続いた。巨大な広間が昂揚と叫喚の怒濤のただ中に巻き込まれるまでにさして時間はかからなかった。 「ひやりとしたのではないか?」 式典こそ終わったものの、収まりつかない『皇太子殿下万歳』の叫びの渦が広間中を席巻している。ラインハルトはヒルダを振り返った。 「少し……でも、陛下こそ」 「少しは……な」 ラインハルトは微笑う。一度、控えの間に戻たアレクは、まだ広間に戻ってきていない。 「あの程度の窮地なら、幼年学校時代に何度も経験した。アレクなら切り抜けられるはずだと信じていたのだ」 「でも、陛下、それはアレクに対してフェアではありません」 ブルー・グリーンの瞳が微笑うのに、ラインハルトは意外さを抑えきれない表情で応じる。フェアではないとは、他にどのような言葉を予測していたとしてもその中には入っていなかった。 無論、ヒルダの方もラインハルトのそんな反応は計算済みだった。 「陛下にはキルヒアイス主席元帥がおられたのに、アレクにはまだ誰もおりませんわ」 「それはそうだが……」 フェリックス・ミッターマイヤーには、アレクの親友となってくれるように依頼した。だが、当時のフェリックスはまだ二歳。アレクはまだ一歳。ラインハルトがキルヒアイスに巡り会ったのは一〇歳の時。キルヒアイスを自らの半身と見定め、自分と共に歩むことを求めたのはラインハルト自身だった。彼の父セバスティアンではない。その意味で、ヒルダの言葉は正しい。まだ、アレクは我が半身を見いだしていない。フェリックスがアレクの半身たり得てくれるかも知れないとは、ラインハルトの勝手な希望でしかないのだ。 「あなたには勝てぬな……」 遂にラインハルトは白旗を選択した。 「しかし、アレクは切り抜けた」 「ええ……」 式部官とフェリックスに付き添われてアレクが黄金獅子の間に入ってくる。『殿下、万歳!』の叫びがたちまち無数の唱和を呼び、再び広間が万歳の声で飽和した。 「陛下」 その中で、ラインハルトに声をかけたのはベルンハイム宮内尚書だった。 「まことに盛大な立太子式でございますな。臣のような微才の身をご登用いただき、ヴァルハラに赴いて後に先達に語るべきことが山のようにできましてございます」 「なにを言うか、ベルンハイム。ヴァルハラへ赴くには卿はまだ楽に二、三〇年は若かろう。ヴァルハラの住民たちより先に、卿の孫や曾孫に話して聞かせるべきことが無数にあるのではないか」 「宮内尚書を拝命いたしましてよりすでに一〇年に相成り申します。陛下の閣僚の一員にご指名いただいた折りは、てっきりこれは何かの間違いと思ったものでございましたのに。この一〇年を過たず勤め上げられただけでも奇跡と申し上げるべきことでございましょうゆえ、臣のささやかな希望をお容れ下さいますように、なにとぞ」 「卿を登用したのは予だ」 ラインハルトの口調にはいささかの澱みもない。 「予は卿の阿諛追従の能力<ちから>によって卿を登用したのではなく、卿の才と誠意を買ったのだ。あまりな謙遜は、かえって予に対する侮辱となるぞ」 「これは、恐れ入ります、陛下」 「卿は何か、予に頼みたきことがあるのであろう」 「陛下……」 「言ってみるがいい。卿が、今更晩節を汚すような願いを予に向かってするとは思えぬ」 「シュペーア伯爵家のことにございます」 「なに?」 ベルンハイム男爵は言う。当主フェルディナンドの長男でシュペーア伯爵家の後継者としてラインハルトの承認も得ていたのがアーヤクス・フォン・シュペーア。フェルディナンドの長男が宇宙船の事故で亡くなったのがほんの数ヶ月前。それ以来、すでに七二歳のフェルディナンドはにわかに病に伏すことが多くなったと伝えられる。 「フェルディナンド卿としては、アーヤクス卿の長男……つまり、嫡孫でございますな。ことし九歳になる嫡孫をとりあえずでもシュペーア伯爵家の後継者の地位に正式に就けたい……と、ただひたすらにそう念じておるようでございます」 「シュペーア伯爵家の嫡孫だと?」 ラインハルトは記憶の底にしまい込んだ人名録のページを何ページを繰り広げてみる。何枚もめくる必要もなく、その名前が意識の表層に浮かび上がってきた。つい数ヶ月前、獅子の泉宮の皇宮近くですれ違った少年。アレクが、『アレクだよ』と呼んだ少年。 「アレクシス・フォン・シュペーアか」 「……ご存じでしたか」 蒼氷色の視線が、忠実な老貴族から離れ、ヒルダ、そして少し離れたところに佇んでいたキルヒアイスに流れた。少し躊躇ってから、ラインハルトはキルヒアイスを呼び、ベルンハイム男爵の言葉を伝えた。 珍しく、キルヒアイスは眉間に縦皺を刻んだ。 「……リップシュタット戦役で随分助けていただいたことは措くとしても、フェルディナンド卿は物事の是非を十分にわきまえた方だと記憶しています、陛下。そのフェルディナンド卿が、僅か九歳の嫡孫の伯爵家継承に執心されるというのは……」 「変だというのか?」 「老いと病とは人を変えますぞ、主席元帥」 「……」 「一〇年前のフェルディナンド卿から、現在の彼の方を判断するはいささか性急のそしりをまぬかれますまい。老いてよりの孫は可愛いもの。晩年のフェルディナンド卿の執心、かなえてやっても問題はありますまい」 「それはそうですが…」 「帝国の施政の原則を枉げるわけですから、何らかの見返りをさせてもよろしいのではないかと、臣は考えますが」 「それは軍務尚書の考えるべき領域だな。卿の提案は軍務尚書と主席元帥に諮ることにしよう」 笑いは含んでいたが、言葉は真剣さを失わない。ベルンハイム男爵も、ラインハルトの閣僚の席を自らの識見によって獲得したことに間違いはなかった。 もう一度、キルヒアイスとヒルダに視線を走らせ、ラインハルトは断を下した。 「よかろう。裁可は別途下すゆえ、その旨を正規に上申するべき旨、シュペーア伯に申し伝えるがいい」 「……さらに陛下」 「この上にまだ、何かあるのか、ベルンハイム」 意外さを隠そうとしないラインハルトに、ベルンハイム男爵は説明する。フェルディナンド卿の病が篤く、嫡孫のアレクシスもシュペーア伯爵家領を離れられない状態である。 『帝国の藩屏<はんぺい>たる貴族階級』などという戯言を、ラインハルトは欠片ほども信じていなかった。 なにが『藩屏』なものか。特権と富を独占し、それでも飽きたらずに旧王朝を内側から腐敗させ、食いつぶし、遂にルドルフの末裔が業火の中に潰え去っていく、その最大の原因を作った者こそが、門閥貴族ではなかったか。 とは言え、リップシュタット戦役後に有力貴族の九割以上を廃絶させ、その財産のすべてを国庫に没収したラインハルトである。戦役前から彼に忠節を示す、極少数の貴族たちの爵位と特権…かなり強い枠が課せられていたが…を剥奪する必要性を認めなかった。生前に当主が後継者を定めること。そして、後継者は必ず皇帝自らより、爵位継承の親補を受けること。原則的に一〇歳未満の幼児による後継は認めない。 「シュペーア伯爵家の領地は帝都からどれだけ離れているのだ、キルヒアイス?」 「概ね……約三〇〇〇光年……二週間から二週間半の行程か、と。まさか、陛下……自ら、伯爵領へ?」 「シュペーア伯の功績に鑑みれば、今回に限って我が儘を聞き入れやってもよいと思う」 「しかし、陛下」 キルヒアイスはさらに指摘する。 要塞をワープさせたガイエスブルグでの実験に倣って、皇帝臨御のもとに行われる新型ワープ機関の公式テストが一〇日後に迫っている。『ブリュンヒルト』の出発は二日後に予定されていた。 「方向から言って、予定実験場のオータン星系とシュペーア伯のノイストリエン星系とは、ちょうど逆方向になります。どう急がれても、ノイストリエンへ着けるのは一ヶ月半後ということになります」 「分かっている……フェルディナンド卿の病状はどうだ。あと二ヶ月、待てるか」 「恐れながら……」 大きなため息と共に男爵がうなだれる。 「では男爵、まずはフェルディナンド卿よりの上申を急がせよ。アレクシスの親補に関しては、予が預かる。手遅れにならぬようにするゆえ、安堵するがよいと伝えよ」 「……御意にございます。陛下のご厚情に、フェルディナンド卿も感涙するでありましょう」 ☆☆☆ 「異論はあろうが、予はすでにアレクシスの継嗣を認めるつもりでいる」 式典の後、キルヒアイス、オーベルシュタイン、ロイエンタール、ミッターマイヤーを呼び集めたラインハルトはそう告げた。 「ただ、フェルディナンド卿の生命がある内に、予がノイストリエンへ赴くのは不可能であろうゆえ、予の代理としてアレクを赴かせたい。その是非に関して、卿らの意見を問いたい」 「敢えて申し上げますが、陛下。アレクシス・フォン・シュペーアは当年でまだ九歳。一〇歳未満の継嗣を認めぬという帝国の原則を、陛下御自らお破りになるのはいかがかと考えます」 「軍務尚書は、継嗣を認めず、シュペーア伯爵家を廃絶せよというのか」 「爵位などなくともシュペーア伯爵家そのもののは軍管区の軍権と、自らの資本力によって、あの宙域最大の勢力を維持するでありましょう」 シュペーア伯爵家は、その傍流のノイエシュタウフェンベルク子爵家…リップシュタット戦役の功績で受爵…とともに、有力な商船団を保有する。商船団は、辺境軍管区艦隊の護衛を優先的に受けられるから、他の独立商人や帝都の大資本に対しても有利な立場を確保していた。他のほとんどの門閥貴族が没落し、ラインハルトを支持した少数の有力貴族も、ローエングラム王朝の官僚・統治機構に自ら組み込まれていく中で、例外的に大きな経済的・軍事的実力を確保し続けている。 「帝都より片道で三週間弱という距離も、伯爵領が独立した軍閥として割拠する危険をいやまします。あまりに彼らを優遇するのは、帝国にとって好ましくありません。この際、何らかの手を打っておくべきでしょう」 「……つまり、爵位継承を認める代わりに、彼らの勢力を削ぐ条件を付すというのか」 ロイエンタールが口を挟んだ。 「陰険な手口だが、有効だ」 一瞬、軍務尚書の反応を確認するように言葉を切る。シュペーア伯爵家のあまりの勢力拡大がローエングラム王朝にとって好ましからざる事態を招く……軍務尚書と統帥本部総長の認識が一致する、極少数例の一つだった。 オーベルシュタインは無表情な沈黙の帳を開けようとはせず、ロイエンタールはその金銀妖瞳に浮かべる表情を改めた。 「純粋に軍事的な観点から見ても、第一辺境軍管区は帝都からの距離と軍事力が他の星系に比較して突出している。この際、第一辺境軍管区での指揮権をシュペーア伯爵家から返上させ、帝国軍直課の軍管区へ変更するのがよい思案と考えます、陛下」 ラインハルトは即答せず、形のいい指先をおとがいにあてがって軽く目を閉ざした。 「キルヒアイス、お前の意見はどうだ」 尋ねると言うよりも確認だった。 「フェルディナンド卿の功績を一時に否定するような性急な施策は、フェルディナンド卿ご自身はともかく、その周辺の人々の反発を買いかねません。軍権を返上していただくにしても、緩やかな手段でおこなうべきではないかと思いますが……」 手にしたメモを、キルヒアイスは一瞥した。 「第一辺境軍管区は、伯爵領の開拓の進展に伴って治安の悪化が報告されています。まず、帝国の制式艦隊から増援を派遣してはいかがでしょうか」 「そして、そのままノイストリエンブルクに常駐させてしまうのだな」 「ええ。軍管区艦隊の指揮官はアルベルト・フォン・シュペーア中将です。少なくとも大将クラスの将帥を派遣すれば宜しいかと」 嘆声が漏れた。 キルヒアイスの策は穏和に見えて辛辣である。 治安が悪化すれば、商用航路を経済的基盤に置くシュペーア伯爵家は窮地に陥る。増援を断れば、自らの拠って立つ足下を掘り崩されるのを座して見ているしかない。あまりな治安悪化は、皇帝ラインハルトの忌避を買う。辺境宙域の治安維持能力なしと断じられたならば、シュペーア伯爵家は辺境軍管区の軍事的指揮権を剥奪されても文句を言えないのだ。 そうなれば、優先的な護衛艦割り当てで競争優位に立っているシュペーアの商船団は、一挙にその地歩を失うことになる。 増援部隊の指揮官が大将クラスであれば、第一辺境軍管区での上位指揮官はその大将となる。一応、独自の指揮系統を認められているとは言え、辺境軍管区軍も帝国軍の軍令承行規定に従わなければならないのだから。それにしたところで、『帝国は第一辺境軍管区の治安を重視し、帝国軍の重鎮を送り込んだのだ』と言われれば、これも表面上は歓迎すべき事態であって、忌避することはできない。 これだけの策を、キルヒアイスはわずか二センテンスで述べたことになる。 (―――筆者言う、これはネイス・ミュッケルだ。キルヒアイスじゃないな―――) ミッターマイヤーが進み出る。 「今、帝都で軍管区司令官の交代を待っているのは、元帥クラスでミュラー、レンネンカンプ、ケンプの三名。大将がビューロー、ドロイゼン、トゥルナイゼン、グリルパルツァーの四名です」 「ロイエンタール」 「は……」 「ビューローに命ぜよ。二週間以内に艦隊の出動用意を整え、第一辺境軍管区に向かって出動せよ。目的は同辺境区の治安維持強化。対宇宙海賊掃討作戦に備えよ、と」 「御意」 「ミッターマイヤー、向こう三ヶ月間の艦隊演習を中止し、帝都にて待機」 「承りました!」 「オーベルシュタイン、次の閣議で今次の出動を諮る。動員に関する予算資料を準備させよ」 「予定の艦隊演習予算を流用なさるのですか」 「実際の軍事行動を行おうというのだ」 微かな苦笑めいた表情がラインハルトの白晢をよぎった。 「同時に艦隊演習を続けて無用の出費を重ねることはない。それに実戦が予想される以上、ミッターマイヤーには帝都にて待機してもらわねばならぬ」 これあるかな、我が主君。そんな表情をオーベルシュタインが浮かべたかどうか。ほんの少し、頭を下げて主君の意を肯ったことを示す。 「キルヒアイス、お前にも帝都にとどまってもらう。予がオータンから帰るまで、国政を統括し、シュペーア伯爵家との折衝に当たってくれ」 キルヒアイスはわずかに眉を顰めた。 「アレク殿下に同行せずとも宜しいのですか」 「俺と……いや、予とお前が二人とも帝都を空けてどうする。厄介な仕事をすべて押しつけられて、マリーンドルフ伯の辞めたい病が再発したらどうするのだ」 「それは……御意ですが」 「心配するな、キルヒアイス」 手を伸ばし、ルビーを溶かして染めたような真紅の髪を軽く引っ張る。少年の頃から何十度、何百度となく繰り返してきた仕草。 「アレクの護衛にはミュラーを付ける。明日、執務室に来るように、ミュラーに伝えておいてくれ」 ☆☆☆ 「早すぎはしないと思うのだが」 ラインハルトが皇宮へ戻ってきたのは、その日も深夜だった。出迎えたヒルダに、彼が最初にはなった問いがそれだった。前置きも置かない話し方が、ラインハルトが真っ先に相談したかったのが彼女であっただろうことを示して余りあった。帝国の高官たちの前、特に軍務尚書を傍らに控えさせて、ヒルダの意見を求めるのはさすがのラインハルトにもはばかられたに違いない。 夫の意図する所を正確に理解して、ヒルダは頷く。 「九歳の子供が伯爵家を嗣ぐのですもの。八歳の子供が皇帝の代理として出向けば、伯爵家の人々も神経を尖らせずに済みます。アレクシスとアレクは気が合うようですから、これで本当の友達になってくれれば、アレクにも、シュペーア伯にとっても、それに帝国にとってもマイナスになることは少しもありません」 「貴女にそう言ってもらえると嬉しいな」 「まるで妻の顔色にびくびくしている恐妻家のようでいらっしゃいます」 ヒルダはからかう口調だった。 「ラインハルトさまらしくありません」 「何を言う……」 大きな式典を無事に終えた……これが、自分一人のことであれば、ラインハルトもヒルダも僅かな疲れも感じなかっただろうが、丸二年以上を費やした帝国憲法の正式な実施と長男アレクの立太子式典である。さすがに疲れを知らぬこのカップルも、肩から大きな荷を降ろしたような安堵感を味わっていた。交わす言葉が常よりも軽さを帯びていたのも無理はなかった。 「予は立派な恐妻家だ」 「ご冗談が過ぎます、ラインハルトさま!」 ちょっと気色ばんだヒルダにラインハルトは顔色を改めた。 「済まぬ…アレクはもう休んだのか」 かなり興奮気味で寝かしつけるのに苦労したというヒルダに、ラインハルトも頷く。胸の中で思い出が弾け、もはやおぼろげになった記憶の残映が浮かび上がったようだった。 「初等学校に入って初めての遠足で散々興奮して、姉上の手を焼かせたことがあったな」 翌日、夜更かししすぎて寝ぼけ眼の彼の手を引いて学校へ駆けつけた姉の上気した顔色だけが、全体にセピア色に変色し、おぼろげに霞んだ風景の中、鮮明な色彩を帯びて記憶の中に焼き付いていた。 ヒルダは笑う。寝ぼけ眼のラインハルトと、必死になって弟の手を引っ張っているアンネローゼも微笑を誘われる光景に違いなかった。それよりも、ラインハルトでも『初めての遠足』で興奮した時があったのかと思うと、こみ上げてくる可笑しさをどうしても押さえきれないのだ。 「予でも、初めて家から遠くへ出かけるというのは楽しみだったのだぞ。特に、家から離れて別の土地へ行けるということそれ自体……」 ラインハルトが飲み込んだあとの言葉も、ヒルダは過たずに推測する。ラインハルトにとって思い出したくもない記憶があるとすれば、それは父セバスティアンに関わるそれである。家から離れるとはつまり…… 「…ところで、ヒルダ、聞きたいのだが」 察して、言葉を探すヒルダに、ラインハルトが生真面目な口調になった。 「はい?」 「恐妻家とはどういう人間のことを言うのだ?」 「……」 ヒルダは脱力した。 「アレクサンデル・ジークフリード」 「はい、ファー……陛下!」 ミュラーに付き添われたアレクが、ラインハルトの声に応じる。両親に似て白晢の頬が真っ赤に染まり、抑えきれない興奮に両目が星のように燦めいている。 「最初の国事<はじめてのおつかい>として卿に命じよう」 「はいっ!」 「予の代わりに、シュペーア伯爵領のノイストリエン星系へ赴き、アレクシス・フォン・シュペーアに会い、予の手紙をわたしてくるのだ」 「陛下の手紙?」 「そうだ。今回は、ミュラー元帥が共に行ってくれる。できるな」 「はいっ!」 元気よく返事をするアレクに思わず微笑みかけようとしたのか、ラインハルトが微かに唇をゆがめた。ちょうど、笑い出すのを辛うじて止めたような印象に、ミュラーは思わず口元をほころばせた。 「では、頼む。ミュラー、卿には苦労をかけるかも知れぬが」 「鉄壁ミュラー<ミュラー・デア・アイゼンルン・ウォンド>の名に賭けまして、アレク殿下をお守り申し上げます」 のち、ミュラーはこの時の皇帝との会話を苦笑とともに回顧している。 『自分が再び鉄壁<デア・アイゼンルン・ウォンド>たらねばならなくなるなどと、予想できるはずはなかった』 1