罠 超光速航行を実現するワープ機関の原理が発見されたのは、まだ西暦が人類にとって唯一の暦であった時代である。宇宙省恒星間航行技術研究開発室長のアントネル・ヤノーシュ博士を中心とした研究者グループがワープを実現する基本原理と、プロトタイプを完成させたのが西暦二三六〇年。その後、三〇年余りをかけて完全な実用化にこぎ着けた超光速機関は、二つの機構から構成されていた。 一つは一定範囲において時空間にひずみを生じさせ、ある時空間と他の時空間を一時的に接合させ…一般的に時空の波を跳び越えると表現されるが…、その一定範囲を他の時空へ移動させる装置。これが狭い定義での『ワープ機関』と呼ばれる。 他は、ワープ機関の消費する膨大なエネルギーを供給する動力装置。これは、核融合炉の小型化とエネルギー転換方式の根本的な改良によって解決が与えられた。最も初期の原子炉のように、『最も進歩したニューコメンの熱水機関』では要求される出力、そして宇宙船に搭載する場合のサイズ、これらのいずれの要求にも応えられなかった。核融合炉で発生する巨大なプラズマ流から、直接膨大な電力を発生させるメカニズムと、レーザー爆縮技術の成熟による核融合炉心のコンパクト化が、ワープ機関の実用化に対して最終的な回答を提示したのが、西暦二三〇〇年代末のことだったのである。 それから約八〇〇年後、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムによる銀河連邦の纂奪があり、さらに二世紀を経てアーレ・ハイネセンらによる『長征<ロング・マーチ>』がなされる。ローエングラム王朝初代皇帝のラインハルト・フォン・ローエングラムが登極するまでには、『長征<ロング・マーチ>』終了後、さらに二七〇年余りを待たなければならなかった。 だが…… 「超光速航行機関が、時空間のひずみを生じさせ、物質を移動させる装置と、これに動力を供給するシステムとで構成されているという、この基本的アーキテクチャには一切の変遷はなされなかったのです」 帝国軍総旗艦『ブリュンヒルト』内の一室で、皇帝ラインハルトを前に説明していたのは、一人の女性だった。年齢は四〇歳半ば。きっちりと結い上げているくすんだ赤毛と、薄いグリーン・グレイの険のあるきついまなざしの所有者である。一応、端正な容貌と称してもよいが、さして希少価値を主張できるというほどでもない。 フレーデグンデ・ロゼマリーエ・フローレンツ・フォン・テーオバルト。帝国軍技術少将。かつてシャフト上級大将の元で科学技術総監部に所属。シャフトの捕縛によって、科学技術総監部そのものが艦政本部に吸収されるのに伴って艦政本部へ異動した。 フレーデグンデ・フォン・テーオバルトはシャフトとは対立関係にあったと伝えられ、ガイエスブルグ要塞の機動要塞化計画が公表されると、公然とこれを批判した。 「ガイエスブルグの機動要塞化などと物々しいことを言っているけれど、新規の技術の欠片もない。スケールをばかでかくしただけ。その程度のことなら猿にでもできる」 正面からこの批判を叩きつけられたシャフト科学技術総監は激怒し、彼女を最前線の移動工廠付き技術者に左遷した。が、その後のシャフトの没落に伴って帝都へ呼び戻され、現在では艦政本部幹部の一角を占めるまでになっている。 「今回、皇帝陛下のご臨席を仰いで行います新型ワープ機関ですが、その主要な変更点…改良点は、動力装置にあります」 プロジェクタの映し出す映像が切り替わる。 「艦政本部が現在、研究開発中の超融合炉……あるいは対消滅炉です。現在、帝国軍宇宙戦艦の標準動力炉である艦本式ノルデン型核融合缶に比較しますと、同一サイズでの出力は一二〇倍」 ラインハルトの周囲で小さなどよめきが上がった 「また一回の燃料補給での炉の稼働時間は約二〇倍に伸びるものと期待されます。この性能の違いは、従来の核融合炉が重水素の核融合をその原理としているのに対し、超融合炉が物質・反物質反応を作動原理としている差異から生じるものなのです」 「……しかし、動力が増えたからと言って、ただちに航行能力の違いとなって現れてくるものなのか」 ラインハルトがフレーデグンデの言葉を遮った。 「ワープ装置そのものは改良されておらぬのか」 「こちらも改良されております」 グリーンよりもグレイの濃い双眸がちかりと光って、皇帝をよこざまに薙いだ。 「艦政本部内部でも様々な改良案が考案されておりますが、今回、実験に供しますのは、単位時間あたりに供給する動力……これは電力ですが、これを増加させ、跳躍距離を延伸させるという方向へ改良がなされたものです。跳躍距離を現状維持し、超光速航行可能な物体の質量を増大させることも可能です。たとえば、ガイエスブルグ機動要塞では、複数のワープ装置を完全同期させるために細心の注意と不断のメンテナンスが必須ですが、この装置であれば一基にてイゼルローン要塞を移動させ得るレベルまで、改良が可能でしょう。これまで超光速航行距離は、動力を供給する動力炉の単位時間あたりの出力と燃料の搭載量が主要な制約要因でありました。超融合炉が実用化されれば、これまで不可能とされていたワープ装置そのものの改良にも拍車がかかるものと小官は期待します」 「それで、今回はどの程度の跳躍距離を設定しているのか、伺いたい」 これはシュトライト中将である。 「実験の成功・不成功をどのように判定するのか?」 「まず、他宙域から本宙域……オータン星系へ、この新型エンジンを積んだ戦艦をワープさせてきます。この際の跳躍距離は約五〇〇光年です。ワープ終了後、恐れながら陛下からのメッセージを頂き、それを携えてさらに一〇〇〇光年の距離にあるグリームニル星系へ跳び、陛下をお待ちします。その上で、陛下に対して実験完了のご報告を行う予定となっております」 フレーデグンデは腕のクロノメータに視線を走らせ、そろそろ時間ですと告げる。 ラインハルトを先頭に『ブリュンヒルト』の艦橋へ移動する一〇名近い将官の肩書きを持つ帝国軍人たちの中には主席副官のシュトライト中将、親衛隊長キスリング大将の他、工部尚書のシルヴァーベルヒの姿もあった。艦政本部は軍務尚書の管轄下にあり、本来、工部尚書が直接関与する実験でもない。 「新規技術と言えば、これは無視はできない。提督における新技術開発に対してまったくのつんぼさじきと言うのだけは我慢できないのでね」 それがシルヴァーベルヒの言い分だったと言う。 ただ、彼はラインハルトに進言してもいる。ラインハルト自らが実験に臨席する必要はないのではないか。 「ガイエスブルグの実験の時は予だけではない、我が帝国軍の幕僚ほとんどが参加したのだ。今回は予とシュトライト、それにキスリングを除けば帝国軍の最高幹部とは言えぬ者たちばかりが参加しているに過ぎぬぞ、工部尚書」 「おそれながら……臣の危惧するところは、なんて言うんでしょうか。何か、きな臭いような感じがどうしても拭えないんです」 「ほう……」 ラインハルトは笑ったものである。卿にしては珍しく論理的にあらざる表現ではないか。 「きな臭い、とは」 「超融合炉……対消滅炉の開発は艦政本部と工部省の共同プロジェクトですから、開発状況も知っています。確かにかなり安定してきている。しかし、この時期にわざわざ陛下をお呼びして実験を行うというのは……まあ、ワープ装置の方は艦政本部の管轄ですから、臣の目の及ぶところでないのは確かなのですが」 「何か、トリックでも隠されていそうだから、卿の眼力で見抜いてやろうとでも言うのか」 「いえ」 シルヴァーベルヒはかぶりを振った。 「単なる好奇心です、陛下」 『ブリュンヒルト』の艦橋は巨大な半球形をしていて、ほぼ全面がスクリーンになっている。戦闘時には様々な戦闘情報が表示される広大な画面が、今は艦外に広がる宇宙空間をただ映し出していた。照明も最小限度に押さえられ、艦橋内に入るとまるで自分が支えもなく宇宙空間に踏み出してしまったような錯覚を覚えてしまう。縦方向に感じる人工の重力が、かえって錯覚を増幅させ、真っ逆様に前方へ落ち込んでいくような感覚に陥らせてパニックを起こさせることすらある。 だが、『ブリュンヒルト』に参集した人々はそんなパニックに襲われるほど、宇宙から縁が遠くはなかった。 鮮やかな星空が、『ブリュンヒルト』を取り囲んでいる。オータンは自由惑星同盟との間に広がる航行不可能域に近く、星々の密度も比較的低い。黒ビロードに無数の光の粒をちりばめた光景は、それでも何人かは思わず小さく嘆声をもらしたほど美しかった。巧遅な人工物の美ではない。一切人の手の加わっていないむき出しの自然の造形が圧倒的な迫力は、見る者に『美』として以外の認識を許さない。 星系の主星オータンが後背から『ブリュンヒルト』を薄く青い光で照らしている。とは言え、オータンまでの距離は優に五〇天文単位(七五億キロメートル)。オータンは単に、星空の中で最も大きく明るい恒星としての存在を主張しているに過ぎない。さらに『ブリュンヒルト』から見て左上に薄ぼんやりとした青っぽい塊が見える。オータンの第六番惑星。直径一一万キロメートル。濃い青みを帯びたガス状の大気から、『青のバジリカ』と呼びならわされている巨大惑星だった。 新型ワープ機関を装備した戦艦『グードルーン』は、バジリカのやや右下に出現してくる予定だった。 電子士官が抑えた声を上げる。 「『グードルーン』から入電。これよりワープ開始へ向けてカウントダウン開始します」 スクリーンの一角に数字が現れ、微かに瞬きながらカウントを減らし始めた。 ☆☆☆ 時間的に言うと少し前。 帝国宰相府。難しいと言うより険しい表情のキルヒアイスと、無機質なまでの無表情さを保っている軍務尚書が、執務机をはさんで向かい合っていた。 『ブリュンヒルト』を見送り、ノイストリエンへ向かうアレクとミュラーを乗せた新型戦艦『クリームヒルド』を送り出してから一〇日目の朝。すでに『ブリュンヒルト』がオータン星系で実験宙域に定置した頃である。 キルヒアイスの眉間に縦皺を刻ませていたのは、一通の密告状だった。アンネローゼが庭木の枝にさしかけられている防水封筒に気づいたのが今朝。 『皇帝を時と空の棺に葬らんとする不遜の企みあり、心せられよ。白き棺は青き墓標のもとに葬られん』 古典的と言うべきか、便箋に達筆なペン書きでただそれだけ。便箋にはゴールデンバウム王朝の紋章たる双頭の鷲の透かし。 キルヒアイスには、これに似た密告状を目にした経験がある。言うまでもなく、『宮中のB夫人がG夫人に対して害意を抱くなり……云々』の、あの密告状である。 「密告にはいくつかの狙いがありますが、これは罠でありましょうな」 オーベルシュタインの声は一切の感情を排して平板だった。 宰相府に出勤し、最初に連絡を取ったのがオーベルシュタインだった。密告状に単純ならざる狙いが込められているであろうことを察知するくらいは、キルヒアイスにとって造作もないことだった。だが、実際にどのような謀略が、この単純極まる一文に託されているのかを見抜くとなると、キルヒアイスは自分の限界をよく心得ている。オーベルシュタインの思案の扉を叩くのに躊躇を感じなかった。 「罠……ですか?」 「さようです。閣下のご自宅は簡単にくせ者が侵入できるような警備状態ではありますまい」 「ええ。前例がいくつもありますからね。警備には気を使ってもらっています」 即位してからだけでも、キュンメル邸、柊館、『ルビンスキーの火祭り』、そして『ヴェルゼーデ仮皇宮』襲撃。ラインハルトは立て続けに四度も、その生命を狙われている。柊館ではアンネローゼまでが身を挺して皇妃ヒルダと皇太子アレクを守る羽目になったのだ。 もっとも、あの柊館事件がなければ、今の自分とアンネローゼはなかったかも知れない……ふと、思案が反れかけ、キルヒアイスは慌てて現実に意識を連れ戻した。 理由もなく頬を紅潮させたキルヒアイスに、オーベルシュタインは特に気づいたでもなく言葉を続けている。 「それゆえ、この手紙は庭の片隅……最も気づかれにくい所にある庭木にさしかけられていたのでしょう」 「手紙を入れるところを見られるとまずい?」 「少なくとも皇帝陛下と帝国に好意を持って密告という挙に出たとは考えられませんな。多分、実際に陛下に対して不逞の企みを抱く者たちが、企みの一環として我らを攪乱する目的で密告を行ったと見るべきでしょう」 「なるほど…それで、この密告状の内容は事実でしょうか?」 「主席元帥閣下はいかが思われます?」 「事実だと思います」 疑問の微粒子を、キルヒアイスはあっさり振り払う。 「本当に陛下に対して企みを抱いているのなら、企みの一環を正確に伝える方が、攪乱の効果があります」 「なるほど、閣下は素直なお方だ」 「あなたは、これが嘘だと言われるのですか、軍務尚書」 「いえ」 オーベルシュタインもかぶりを振る。 「小官もこれは事実の一環を告げたもの、“皇帝を時と空の棺に葬らんとする不遜の企みあり”とは陛下を宇宙空間で謀殺する意図を示したもの。“白き棺”とは、『ブリュンヒルト』のことを指すと見て間違いありますまい」 「“青き墓標”は、実行地点への暗喩ですね……『ブリュンヒルト』の予定航路に“青”を示唆する場所がないか、直ちに確認させましょう」 コンソールを弾き、キルヒアイスはいくつかの命令を下す。『ブリュンヒルト』のラインハルトと連絡を取ること。航路に“青”の単語を冠する星系や、あるいは宇宙基地などがないかどうかを確認すること。 一通り命令を下し終わり、キルヒアイスはもう一度、軍務尚書に視線を戻した。 「……それで?」 「五分で概ねの意図が了解できる程度の暗喩ゆえ、密告状の内容を事実と想定して我らが動くことを狙ったもの。そう考えるのが最も筋が通りましょう」 「たとえば、陛下が狙われていると気づいたわたしたちが、ミッターマイヤー元帥なり、ロイエンタール元帥なりを救援に派遣する……と?」 「あるいは閣下ご自身」 オーベルシュタインが補足し、キルヒアイスは苦笑した。三つ目の命令、『バルバロッサ』の出動準備、をもう少しで下すところだったのだ。 「帝都を空白にさせておいて、何らかのテロを実行する。狙いは……皇妃陛下、あるいは……」 珍しくキルヒアイスが嫌な顔をするのを無視して、オーベルシュタインは続けた。 「グリューネワルト大公妃」 「……」 「帝都の警備を強化させることと、皇帝陛下にはご連絡を差し上げ、警戒を厳にされるようにご説明を差し上げることですな。あとはこの密告者のラインから、首謀者へたどり着けぬかどうか、捜査を行わせましょう」 「陛下へのご連絡と帝都の警備はわたしが行います。尚書には、首謀者捜査を」 「了解しました、閣下」 その一五分後、幕僚総監部から連絡を受けたキルヒアイスは今度こそ血相を変えた。報告は述べていたのだ。 『オータン星系第六惑星バジリカ。通称青のバジリカ。古代神話において、女王ブリュンヒルトを葬った場所の名として伝えられる』 そして、帝国軍の総力を挙げての努力にも関わらず、『ブリュンヒルト』との連絡は杳としてとれなかった。キルヒアイスが、主席元帥の権限によって『バルバロッサ』麾下の帝国艦隊の出動を命じたのは、その日の午後のことだった。 「これも手の込んだ罠ではありますまいか……主席元帥閣下自らが出られるには及びますまい。帝国軍に人材が枯れきったというわけではありません」 唯一、キルヒアイスのこの決定に異を唱えたのはオーベルシュタインだった。 「分かっています」 それがキルヒアイスの返答だった。 「あなたのおっしゃるとおり、これは陛下だけではなく、ミッターマイヤー、ロイエンタール、そしてわたしと、加えるにオーベルシュタイン元帥、あなたをもターゲットにした罠ではないかと」 「小官をもターゲットに?」 オーベルシュタインの表情は意外さを浮かべなかったが、口調は明らかに意表を突かれたそれだった。 「直感です」 キルヒアイスは微笑う。秋の空のように翳りのない、キルヒアイス本来の微笑ではなかった。一刻の猶予も許されない、焦慮に満ちた苦い笑い。 「以前、陛下が冗談半分におっしゃったのです。陛下とわたしはたった二人、宇宙征服を企む悪の秘密結社だったと。その後、一〇歳の子供二人の始めた秘密結社に、あなたとロイエンタール、ミッターマイヤーの三提督が加わって下さった、と」 「秘密結社?」 副官のフェルナー中将などが見れば仰天したかも知れない。肉付きの薄すぎるオーベルシュタインの唇がほんの少しだけ緩やかな半月形を描いたのを。 「それは光栄なことですな……つまり、ローエングラム王朝の中核たるのは陛下を中心とした、四人の元帥たちだ、とでも?」 「解釈はお任せします、尚書。いかなる陰謀が企まれているにしても、狙いの一人は必ず陛下であり、他にターゲットがあるとすればこの四人の内の一人であることは分かっています」 「では、なぜ、敢えて罠に踏む込もうとなさる?」 「お分かりになりませんか?」 オーベルシュタインは緩やかに頭を振った。 「ナンバー2というものが、組織にとって不要であるばかりでなく、有害である点において、小官はいささかも譲るつもりはありません。ただ、閣下は主張なさるでしょうな。閣下はナンバー2ではないのだと」 「ええ」 満腔の自信を込めて、キルヒアイスは頷く。 ラインハルトの返答がすべての回答を与えてくれたのだ。 「お前は俺の半身だ。決まっているではないか」―――と。 ガイエスブルグでの、あの出来事こそが、彼にその自信を与えてくれた。彼は、ラインハルトにとってのナンバー2ではない。ナンバー2とは、すなわちナンバー1……組織のトップにいつか取って代わることこそを前提とされるべき存在ではないか。 しかし――― ローエングラム王朝とは、キルヒアイスにとってその頂点に立つべき対象ではなかった。ラインハルトがその頂点に立った以上、彼自身もまた、自らの拠って立つ位置がナンバー2として皇帝を見上げる立場ではありえない。ローエングラム王朝そのものが、生涯を賭けた作品である以上、それは守り育てるべき対象であって、纂奪するべき存在ではあり得ない。 それゆえに、キルヒアイスは彼の半身< ラインハルト >を失うことだけは絶対に許容できないのだ。 ☆☆☆ 「三、二、一……」 カウントダウンが続いている。スクリーンの端に表示された数字が〇を示すと同時に、『ブリュンヒルト』の艦橋が小さなどよめきを湛えた。想定されていたまさにそのポイント。『青のバジリカ』で知られるガス状巨星のおぼろげな姿のやや右下の空間が揺らめき、一瞬後、青と赤の識別灯を煌めかせた戦艦の姿が現れたのだ。 「成功だ……」 誰の声か判じがたい。新型ワープ機関による最初の超光速航行実験の完了が成功裏に終わったことを、その声は明確に示していた。 「『グードルーン』より入電、実験は完全に成功。艦体に損傷なし、搭乗員にも異常なし。皇帝のお出迎えをいただき、恐懼の極み……と」 ラインハルトは視線をフレーデグンデに移す。 きつい眼差しで頷き、彼女は部下の技師たちに矢継ぎ早の指示を与え始める。ワープ機関の作動履歴、機器の動作状況、対消滅炉の稼働状態、『グードルーン』に持ち込まれた小動物や小魚による艦内環境のチェックなど、数百項目にもわたる項目が次々にチェックを受けていく。 「新型のワープ装置と動力装置が実用化されれば、軍事技術における一つの革命と称してもよいことになるでしょうな」 「それはまだどうかわかりませんぞ、中将」 シュトライトの感想にシルヴァーベルヒが応じた。 「核融合燃料に比較して、反物質燃料は生産と保存が難しい。価格も高価だ。対消滅炉による航行可能距離の延伸と、反物質燃料の価格との費用対効果<コスト・パフォーマンス>が、現状の核融合炉に対して優越を占められるかどうかがポイントになるでしょう」 「では、まず帝国軍が採用すればよいのではありませんか、尚書」 シュトライトは言う。有望な新技術でも、費用対効果の上で民間で採用されないのであれば、軍がこれを採用すればよい。航続距離が長く、しかも、より短時間でパルス・ワープを繰り返せる新型機関は、軍事面には大きな費用対効果をもたらすだろう。 「同じ距離を半分の時間で移動できる戦艦一隻は、従来型戦艦二隻分の戦力を意味します。建造費用が五割り増しとなっても、建造する価値が出てきますから」 「軍人の論理は常にそうですな。まあ、一定の数が量産できるようになれば、量産効果も期待でき、民間への転用も可能になってくることでしょう」 ふ、と会話が途切れ、シルヴァーベルヒとシュトライト、さらにキスリングの視線が一点に集まる。 視線の先で、彼らの皇帝が、その周囲に沈黙の厚い帳を巡らしていた。彼らの会話を不意に途切れさせたもの、それが皇帝の不可解な沈黙だったのだ。 「陛下……いかが、なさいました?」 シュトライトが一同を代表する。 我に返ったように、ラインハルトがシュトライトの顔を見つめ、キスリング、シルヴァーベルヒと視線を移していく。 「卿らは……」 「は?」 「いや、何でもない」 ラインハルトは、『卿らは感じないか』と問おうとしたのだ。一歩ごとに戦場に近づいていく、きわめて近しい、しかし、ここ数年絶えて感じ取ったことのなかった感覚。スクリーンに表示される敵の大艦隊の姿が一瞬一瞬、戦慄を伴ったちりちりするような皮膚感覚と共に輝きを強めていく時のあの感覚。 『グードルーン』がワープアウトした瞬間、ラインハルトは眼前にヤン艦隊の戦艦を目視した時の戦慄を確かに感じたのだ。 「陛下!」 『ブリュンヒルト』艦長のクルト・ジーグラー准将だった。 「帝都より、緊急の通信です。キルヒアイス主席元帥閣下です」 「キルヒアイスが」 「そちらへお回しします」 通信スクリーンが明るくなり、同時に柔らかな空気のクッションが自分を包み込むのを感じて、ラインハルトの双眸が烈火を帯びる。キルヒアイスからの緊急親展通信。帝都で何かが起こったか、それとも…… 『ご無事でしたか、ラインハルトさま!』 「いきなり、なんだ、それは」 『申し訳ありません。実は……』 密告の内容はラインハルトをさして驚かせはしなかった。 「その程度のことでうろたえるな、お前らしくもない。俺やお前を狙っている奴らなど、掃いて捨てるほどいるぞ」 『それはそうなのですが、万が一のこともあります。単なる嫌がらせならば、それで宜しいのですが、今のところ、制式艦隊がラインハルトさまを護衛しているわけではありません。周到な罠を巡らされれば、キュンメル邸や柊館でのできごとが再現しないとも限りません』 「相変わらず、お前は心配性だな。だが、分かった。周辺宙域の警戒を厳にさせ、『グードルーン』にも臨検を行おう。今、オーディンの軍管区にいるのは、アイゼナッハだったな」 『はい……では、アイゼナッハ元帥に護衛隊の増派を命じます。それと、わたしもお出迎えに参ります』 「……」 何を大げさなことを言っている。幼稚園児の送り迎えでもあるまい……口にしかけ、ラインハルトは言葉を飲み込み、映りの酷く悪いスクリーン上の親友を見つめる。時々、スクリーンがフェードし、あるいは画面が跳ぶ。 ラインハルトの口を噤ませたのは、その通信状態の悪さだった。帝都から一七〇〇光年。十分に遠いが、中継衛星は十分以上に配置している。 「少し待ってくれ、キルヒアイス」 ジーグラー艦長を呼び出す。遮音力場を解除せず、コンソール間の通話装置を使う皇帝に、シュトライトたちが怪訝そうな表情になった。 帝都との通信状態が出港以来、継続して悪化している。通信士は、航路が何個かの新星爆発の衝撃波を横切っている影響として重視していなかったようだった。 ラインハルトからの指示にジーグラー准将は顔色を変えた。 『人為による妨害の可能性でありますか』 「そうだ。調べられるか」 『可能であります。ただちに着手いたします。三時間ほど、時間を頂きますが、よろしいでしょうか』 ラインハルトは少し顎を引いて許可の意を伝えた。 「そういうことだ、キルヒアイス。出迎えてくれるなら、グリームニル星系あたりでどうだ」 オータンとフェザーン回廊の旧帝国側入口の中間宙点の名をラインハルトは示し、キルヒアイスも合意を示して頷く。 「何か企んでいる奴らがいる。この点では俺もお前に同意だ。だが……」 敵の罠に立ち向かい、ことごとく噛み破ってきた覇気に溢れた笑顔が、ラインハルトの表情によみがえってくるのを、キルヒアイスはまぶしいものでも見るかのように凝視していた。 「俺とお前が肩を並べていれば、どんな罠を仕掛けてきても無駄だ。そのことを思い知らせてやる」 『ええ、ラインハルトさま。では、くれぐれも気をおつけ下さい』 「分かっている」 力場を解除。 手短に通信の内容を話して聞かせ、ラインハルトは再びジーグラー准将を呼ぶ。 「装甲擲弾兵一個中隊を組織し、『グードルーン』に向かわせると同時に、艦内のチェックを再度行わせよ」 「御意!」 「シュトライト、護衛の艦艇に指示し、準戦闘配備で警戒を行わせよ」 「星系内の再偵察を行わせましょう。敵の艦隊が伏せられておるやも知れません」 「不要だ」 ラインハルトはにべもなかった。 「正面から護衛部隊を突破して、本艦に達するには一〇〇〇隻単位の艦隊が必要だが、そんな艦隊を動かせばすぐに察知できる。予なら、護衛を分散させ、少数の伏兵で本艦だけを狙わせる策を採るぞ」 「御意」 「あの陛下……」 控えめな声の主はフレーデグンデ・フォン・テーオバルトだった。 「実験結果の確認はほぼ完全に終わりました。何の問題もございません。擲弾兵中隊を『グードルーン』に送られるのでしたら、わたしも同行させていただきたく思います」 「『グードルーン』が敵の手に落ちている可能性もあるのだぞ。もっとも、敵とは何者か、分かってはおらぬが」 「構いません」 ほとんど険しいと言っていいほど鋭いグリーン・グレーの目が固い決意の色を浮かべて、皇帝の視線を受け止めた。ふ、とラインハルトは眉を顰めて、目の前の、もう決して若くはないが端正といってもいい女性研究者の容貌を凝視する。彼の頭脳の中に無数に納められている敵と味方の姿、その中の誰かと、この女性とが確かに共通した何かしらを持っているような、そんな非論理的な感覚が彼を一瞬だけ捉えた。 「あのワープ機関は、わたしの研究者としての一生を賭した作品です。むざむざと奪われたり、破壊されたりすることは絶対に許せません。もし、可能でしたら、この後の長距離ワープ実験にも擲弾兵中隊をそのままお借りしたく思います。“敵”が、この後で策を構え、グリームニル星系で陛下をお迎えした時に利用する、という可能性もあります。一個中隊の擲弾兵が同乗しておれば、『グードルーン』を破壊はできても、無傷で奪取することはかなわないのではありませんでしょうか」 「よかろう」 ラインハルトは裁可した。微かに戦慄を帯びたざわめきは、まだその波を収まらせてはいなかったのだが。 結局、怪しげな動きをする艦隊も現れず、『ブリュンヒルト』艦内にも異常は発見されなかった。『グードルーン』艦内も、それこそ虱潰しの調査を受けたが、不審を買うものは欠片ほども見つからなかったのである。 この騒ぎで予定を大幅に遅らせたものの、新型ワープ機関の実験は続行されることになった。 『それでは、陛下。グリームニルにてお待ち申し上げ、新型機関の性能をご覧に入れられるのを楽しみにしております』 フレーデグンデからの通信に、ラインハルトも微笑で応じた。有能さと勇敢さは常に彼の愛するところであったし、彼女はその双方の所有者であることを十分に皇帝に知らしめたのだから。 「航宙の無事を祈る」 ☆☆☆ グリームニル星系では、すでに二日以上前に到着してその高速性能を証明した『グードルーン』と、帝都から駆けつけてきた『バルバロッサ』麾下の艦隊とが『ブリュンヒルト』を出迎えた。 「ご無事で何よりでした、陛下」 キルヒアイスの第一声はラインハルトを苦笑させたらしかった。途中、アイゼナッハが派遣してきた警備艦隊との合流も果たし、『ブリュンヒルト』は数百隻もの艦艇に厚く守られていた。 『今度ばかりは取り越し苦労だったようだな』 「……そうであればよいのです」 『バルバロッサ』には二六〇〇隻の高速戦艦と重巡航艦が付き従っていた。『ブリュンヒルト』の護衛部隊と併せれば優に三〇〇〇を超える。密告状を送ってきた者がどのような企みを裡に隠しているとしても、おいそれとラインハルトに手を出せるものではないはずだった。 にもかからわず、キルヒアイスが完全に不安を払拭できていないのも事実だった。帝都を発つとき、いつになく不安の影を眉のあたりに滲ませていたアンネローゼの表情や、『この企みにはまだ裏の裏がありそうですな』と評していたオーベルシュタインの言葉などがあぶくのように脳裏に浮かんでは消え、澱のように重苦しいものを胸の内側に降り積もらせた。 『バルバロッサ』は、肉眼でも『ブリュンヒルト』の優美な白い姿がはっきりと捉えられる距離にまで接近した。 「『グードルーン』から入電しています。三点通信です。お回しして宜しいでしょうか」 通信士官がキルヒアイスの注意を引いた。 「宜しいですか、陛下」 『ドクトル・テーオバルトか……構わぬ、お前からも実験の成功を祝ってやってくれ』 通話スクリーンの一角が矩形に切り取られ、くすんだ赤毛の女性のバストショットが入る。 ―――S 指先が何か固いものにコツンと当たったような感覚。通信士官に命じて、『グードルーン』からの通信映像を拡大させる。 端正と言っていいが、華麗や豊麗などという形容からはほど遠い目鼻立ち。その中に、確かにキルヒアイスの記憶を刺激する造作が隠れている。決して快いものではない。不快……寧ろ、危険に近い。 『皇帝陛下、ならびに帝国宰相閣下のお出迎え、痛み入ります』 『見事だ、ドクトル・テーオバルト。卿の研究成果は、帝国軍の戦力を一気に数層倍するに足りるものだ』 『恐れ入ります』 深々と一揖し、フレーデグンデが顔を上げたとき、スクリーンの中の光景が一変していた。彼女の唇の両端が吊り上がり、あざけるような三日月形の笑いを浮かべたのだ。 『本艦の新型ワープ機関は一対を同時に作動させる際に、ワープ空間の発振現象を引き起こします』 『―――?』 「―――S」 『発振を起こしたワープ機関は、艦そのものではなく、艦を取り巻く一定領域に対して時空間跳躍……すなわちワープの対象とすることが可能となります。これは、物質移送に対しても革命的な発明となるはずですが……』 『ドクトル・テーオバルト、卿は何を話しているのだ?』 ラインハルトを、フレーデグンデは無視して続けた。 『残念なことに、この空間に位置した物質が、宇宙のどの位置に転送されるかはまったく分かっていません。いえ、正確に言えば、完全に確率論的にしか位置を特定できず、その確率を計算するための方程式はまだ完成からはほど遠い状態にあります……』 「何をするつもりですか、ドクトル・テーオバルト?」 『お分かりになりませんか、キルヒアイス閣下。今、その発振を起こさせました。『ブリュンヒルト』も『バルバロッサ』も、『グードルーン』に接近しすぎましたわ。全速で脱出を試みられても、所要の時間内には『グードルーン』の引き起こす発振現象からは逃れられません。シャフトのうすのろもよく役に立ってくれました。あの白豚のおかげで、とりあえず発振現象を任意に起こさせるだけの装置の組み込みまではできたのですから』 「まさか―――」 『ええ』 もう一度、深く一揖。 『ちなみにテーオバルトは本名ですが、結婚前の名前はロゼマリーエ・フローレンツ・フォン・ベーネミュンデ。お二人には懐かしい名前ではありませんか』 頭頂をハンマーで殴りつけられたような衝撃。険のある、きつい眼差し。輪郭のはっきりした端正な面差しは、彼ら二人とアンネローゼに執拗につきまとい、生命を狙い続けたあの『蛇夫人』あるいは『チシャ夫人』のそれと共通するものだった。 が―――似ていなさすぎた。ベーネミュンデ侯爵夫人シュザンナの端麗さは、この禍々しい微笑の所有者の共有物ではなかった。視線の強さと輪郭……それ以外、彼女たちは似ていなさ過ぎた。キルヒアイスが…そして、実のところラインハルトも…記憶を刺激されつつも、彼女の面差しの引き起こすある種の不安さの源泉を探り当てられなかったのはそのためだった。 『ベーネミュンデ侯爵夫人の縁者か』 「シュザンナが馬鹿なことをして死を賜った時、ベーネミュンデの一族も誅殺されましたけれど、そのなかにも含まれぬくらいの遠い縁者です、陛下。さっさと結婚して、辺境へ移住していたおかげで、シュザンナのおばかさんに巻き添えにもされずに済みました』 「―――では、なぜ、今頃、ベーネミュンデ侯爵夫人の復讐など……!」 『誰がシュザンナの復讐だなどと申し上げました? 聡明をもって鳴る陛下も、主席元帥閣下も、そんな三文芝居の脚本のようなストーリーしか思いつけないとは、いささか失望いたしました。シュザンナも子供の時は可愛かったけれど、フリードリヒ四世の寵愛などを受けるようになってからは、権高でほんとうに嫌な女でしたわ。復讐してあげる甲斐もない……』 『嬲るかっ!』 ついにラインハルトが爆発する。 『ですが、それでよいとしますわ』 仮面めいた嗤いが、獅子の咆哮を弾き返した。 『オ前タチノタメニ無念ノ死ヲ遂ゲタしゅざんなト、べーねみゅんで一族ノ恨ミ、イマコソ思イ知ッタカ』 完全な棒読み口調。こらえきれなくなったのか、肩をすくめてくすくす笑いを漏らす。狂信者のそれではない、制御された嗤い。 『では、ごきげんよう……ええと、ええ、もうあと一分ほどで発振が最終段階に入ります。今、『グードルーン』を撃っても無駄です。そんなことをしたら、『ブリュンヒルト』も『バルバロッサ』も巻き添えで吹っ飛んでしまいます。それにわたしを今、殺しても装置は停止しませんし』 『きさま―――!』 「何が目的です、ドクトル・テーオバルトS」 『銀河のどこかに、ええ、どこかにはワープアウトできます』 再び黙殺。 『エネルギー量から言って、そうですわね、半径三〇〇〇から一万光年くらいの範囲の球体のどこかには出られるでしょう。ですから、運があったらまたどこかでお会いできるでしょう―――では、ごきげんよう、陛下、主席元帥閣下。お会いできて、本当に光栄でした』 断ち切ったように通信が切れる。 「閣下!」 『バルバロッサ』艦長が悲鳴に近い声を張り上げた。 「時空震です。『グードルーン』を中心に、猛烈な勢いで広がってきています」 「『ブリュンヒルト』に近づけ!」 キルヒアイスは叫んでいた。 「ぶつけても構わない、『ブリュンヒルト』から離れるな!」 「ダメです!」 絶望の応答。 「艦の速度を合わせている時間がありません。無理をしたら、激突して連爆です。可能な限り、『ブリュンヒルト』に近づきます」 『グードルーン』を中心に広がる表現しがたい光。 正確には光ではなかった。 暗黒の光とでもいうものがあるとすればそれだった。暗黒が、禍々しいほどに奇妙に透き通った白い光を帯びて渦を巻く。 渦がまず『ブリュンヒルト』を、続いて『バルバロッサ』を覆い包んだ。護衛の艦艇も次々に、そのただ中に巻き込んでいった。 同時にすべてスクリーンがブラックアウトし、叫喚と悲鳴、何かが壊れるような金属的な音響を最後に、キルヒアイスの意識も暗黒の中に飲み込まれていった。 ☆☆☆ 『星系グリームニルでのワープ装置暴走事故で、『ブリュンヒルト』、『バルバロッサ』、およびその護衛艦約五〇〇隻が行方不明。残存艦艇は鋭意捜索に当たるも、『ブリュンヒルト』、『バルバロッサ』両艦の行方に関する手がかりは全くなし。実験艦『グードルーン』は対消滅炉の暴走によって爆発消滅した模様』 真っ先に現場に駆けつけたアイゼナッハからの緊急電を前に、帝都<フェザーン>は驚愕の渦に巻き込まれた。 「時と空の棺……とはこれのことだったのか!」 ほとんど地団駄を踏むようにして叫んだのはミッターマイヤーである。 「『ブリュンヒルト』と『バルバロッサ』は爆発したのか。生存者はいないのか」 ロイエンタールの問いにオーベルシュタインが答える。 「爆発したという報告は上がっていない。いきなり実験艦から異常な時空震が発生し、一切の観測計器がブラックアウトしたとのことだ。爆発したのなら、艦体の一部が発見されるか、あるいはそれらしいエネルギー反応がある。そのいずれも観測されていない」 「いずれもしても皇帝陛下、帝国宰相がともに行方不明……となると、直ちに皇太子殿下に帝都にお戻り頂かなければなりません」 マリーンドルフ伯爵の面差しも一変していた。穏やかな温顔はそのままながら、頬が落ち、重苦しい影が目の周りを取り囲んでいる。皇帝と宰相・主席元帥の失踪は、ただちに閣僚首座たる国務尚書の肩に、全銀河帝国の重みがかかってくることを意味する。しかも、閣僚中も最も有能な技術官僚であるシルヴァーベルヒ工部尚書までが『ブリュンヒルト』に同乗していたのだから。 「国務尚書の意見に賛成する。すぐにでもアレク殿下にお戻りいただかねばならん。殿下がお戻りになるまでは、皇妃陛下に皇帝陛下の代行を……」 「ミッターマイヤー元帥、それはできない」 「何だと、卿はアレク殿下が立太子の儀をお受けになったのは、まさにこのような事態に備えてのことだったのを忘れたのか」 「議論は落ち着いてして頂きたい、元帥」 オーベルシュタインの口調は同様を示していなかったが、彗星の光を浴びたように青白い顔色が、彼の内心を示しているようだった。もともと血の気の薄い軍務尚書だったが、この時は彩色前の蝋人形に変わらないほど青ざめて見えた。 「憲法だ」 「憲法……―――!」 「そうだ。帝国憲法の中で皇妃陛下に国政の代行権限なしと規定したのは我々だ。アレク殿下に帝都にお戻り頂くのは当然としても、皇妃陛下に国政を代行していただくわけには行かない」 「しかし、キルヒアイスまでが行方不明なのだぞ。国務尚書を侮辱するわけではないが、現在、帝都にあって国政全般を代行できるだけの器量と資格の持ち主は皇妃陛下以外に見あたらないではないか。ロイエンタール、卿はどう思うS」 「さて……」 金銀妖瞳がすぅと細められるのを見て、ミッターマイヤーは何かしら胸の内の冷えるような感覚に襲われる。帝都にあって、国政全般を代行できるだけの器量の所有者……文言だけを見るならば、ロイエンタールもまた一国を担うだけの器量の所有者ではなかったか。 オーベルシュタインの義眼が薄赤い靄のような光を帯びた。ほとんどそれと悟られぬほどの動きで、視線がロイエンタールの横顔を薙いでいく。 ロイエンタールが身体を半身にして、視線の正面に国務尚書を捉えた。 「ナンバー1、ナンバー2ともに不在。ナンバー3となり得る人材は、我自ら封じてしまった。さて、なにかよい智恵はないか」 「わたしに問うているのか、総長」 「ガイエスブルグの時、卿の考えで我らは救われた。あれの再現を期待したいのだが」 「……卿には考えがないのか」 「あるにはあるが、陳腐すぎて口にするのもはばかられる。このような事態では、実績のある卿の意見を優先したいのでな」 「やめんか、卿ら!」 たまりかねたようにミッターマイヤーが吼えた。 「卿ら、皇妃陛下や大公妃のご心労を何と思っているのだ。それだけではない、今、帝国は最高権力者不在の状態が、もう二日も続いている。このようなときに、不測の事態が起こったら、一体、どのように対処するつもりなのだ」 「……いや、済まぬ、ミッターマイヤー」 強すぎる目の光を消して、ロイエンタールが姿勢を正した。 「この際だが、万一のことを考えて陛下のご遺志を確認しておきたいのだが……」 アレクの立太子とキルヒアイスの摂政を決めたとき、ラインハルトは『遺書』と称する文書を収めた金庫を、重臣たちに預けている。『予が死ぬか、あるいは予とリアルタイムに連絡が取れず、一刻を争う緊急事態が起こったときにのみ開封し、皇妃の同意を得て公表せよ』……というのが、ラインハルトの言葉だった。 「それはわたしも考えた」 オーベルシュタインの口からはまたしても否定的な応答が返ってきた。 「できないのだ」 なぜ……と問い返そうとして、ロイエンタールも絶句する。『遺書』を預けられたのはマリーンドルフ伯、ロイエンタール、ミッターマイヤー、オーベルシュタイン、そしてキルヒアイスの五人。 数ヶ月前、彼らを前にしたラインハルトの言葉が一同の耳の奥によみがえっていた。 『閲読するためには全員が暗証を入れねばならぬようにしておく』 全員…… 「キルヒアイスがいない……」 「つまり……陛下のご遺志を確認することもできない、ということだ」 「―――!」 「そこで提案なのだが……」 提案があるならさっさと言え……棘を植え込んだロイエンタールの視線を無視して、オーベルシュタインは続けた。 「アレク殿下にはお戻り頂く。ミッターマイヤー元帥には可動可能な全艦艇を動員し、陛下と主席元帥の捜索に当たってもらう」 「よかろう。旧自由惑星同盟側が手薄になるが、ルッツとワーレンの両元帥も軍管区から呼び戻し、捜索に当てる」 「ロイエンタール元帥とわたしが国務尚書を補佐して、殿下がお戻りになるまで国政を取り仕切ることとする。異論はないだろうか、伯、総長」 「異論はありませぬ」 「いいだろう……しかし、帝国軍宇宙艦隊を総動員して、陛下とキルヒアイスを発見できるという確証はあるのか」 「―――確証があれば、直ちに行動していた」 返答は素っ気ない。 「爆発していない以上、時空震に巻き込まれていずれかの空間へ吹き飛ばされたと見るのが至当だ。少なくとも、それが艦政本部からの見解だった。それが正しいことを期待するしか、今のところは打つ手がない。統帥本部総長にベターな意見があるというのなら、伺いたいが」 異論はなかった。 ☆☆☆ 旧帝都軍管区のアイゼナッハ、旧帝国側フェザーン回廊周辺宙域軍管区司令官のシュタインメッツ、イゼルローン軍管区のファーレンハイト麾下の合計五万隻の艦艇に、帝都駐留のビッテンフェルト隷下の二万隻余りが加わった七万隻以上が『ブリュンヒルト』と『バルバロッサ』の捜索を開始したのが事件後四日目。五日目には、ガンダルヴァのワーレン、自由惑星同盟側フェザーン回廊軍管区に駐留していたルッツも任地を離れて帝都へ向かった。この結果、帝国軍の配置は極端な偏在を示し、辺境軍管区方面と旧自由惑星同盟方面は軍事的真空地帯とも呼ぶべき状態に陥った。皇帝と主席元帥の行方不明という事態を前にしては、やむを得ない状況ではあったが。 だが、必死の捜索にも関わらず、ラインハルトとキルヒアイスの乗艦は杳としてその行方が明らかにならなかったのである。 そして、驚くべき至急報が帝都を揺るがせたのは事件後六日目の五月二四日。 『第一辺境軍管区にて大規模な軍事暴動勃発。アレクサンデル皇太子殿下の乗艦『クリームヒルド』との連絡、途絶』 皇妃ヒルデガルトが軽度の脳貧血を起こして倒れたのは、この報告を受け取った直後だった。 1