エピローグ 「シュペーア伯爵家……ですか」 キルヒアイスは僅かに首を傾げた。 今、ラインハルトとキルヒアイスはノイストリエンから帝都へ向かう航路上にある。『ブリュンヒルト』と『バルバロッサ』の周囲を五〇〇〇隻にも及ぶファーレンハイト艦隊が分厚く守っていた。 二週間に余る航程の一日<いちじつ>、ラインハルトはキルヒアイスを『ブリュンヒルト』へ迎え入れていた。 「……と言うよりもシュペーア伯爵家の財力だろうな」 ラインハルトは応じる。 “シュペーア動乱”は宇宙海賊の二グループを殲滅することで一応の終結を見ている。 六月三日、アレクシス・フォン・シュペーアは、アレクサンデル・ジークフリード皇太子の手から伯爵杖を授けられ、正式にシュペーア伯爵家の後継者たることを認められた。ラインハルトは死の床にあるフェルディナンドに自らアレクシスの継嗣を告げ、これに安堵したのか、フェルディナンドはその三日後、六月六日に亡くなった。 動乱は収まったにしても、まだ後始末は残っている。 モーリッツ・フォン・シュペーア・ウント・ノイエシュタウフェンベルクには帝都への出頭を命じ、アレクシスと守り役のシュパイデルにはフェルディナンドの葬儀後、半年以内にやはり帝都への出頭が命じられている。 「以前、皇妃に冗談半分に尋ねたことがあるのだ」 「なにを、ですか?」 「つまり……宇宙を征服するのに、皇妃ならどのような手段を採るか、と」 ちょっと照れたような口調。 「宇宙征服です……か?」 キルヒアイスは呆れた。 「……それで皇妃陛下はなんとおっしゃったのですか?」 「経済的征服」 「経済的征服?」 「ああ。軍事的な手段には限界がある。だから、帝国を経済面から支配しようとするのがベターな選択だ、と」 世の中がよほどの混乱状態にあればともかく、現存する政権を打倒して政治的・軍事的な支配権を確立するのは非常な困難が伴う。苦労の多い政治的な支配は政府に任せてしまい、それよりも経済面を制圧した方がはるかに効果的なのだ。 「まさか、しかし、皇妃もここまでのことは考えていなかっただろうな。俺も、まさかと思ったくらいだ……」 シュペーア伯爵家の経済力は、帝国屈指のものである。最大の辺境宙域での商用航路をほぼ一定に掌握し、その資本力によって帝国の主要な鉱山、農産物、さらにはさまざまな方面への投資を行っている。決して帝国の経済を支配するほどの力はないにしても、相当以上に有力な経済組織に違いなかった。シュペーア伯爵家を隠れ蓑< カバー >にすれば、経済面からの帝国支配という野望もあるいは実現可能かも知れなかった。少なくとも、徒手空拳からの纂奪を企むよりもはるかに、そのスタートラインはゴールに近くなるはずだった。 「……にしても危なかったな」 ふ、と話題が逸れる。 この夜、ラインハルトの手には珍しくブランデーのグラスがあった。白晢の頬がバラ色に近いほどに血の色を差し上らせているのは、明らかにアルコールの影響だった。 「ええ、本当に……まさか、ノイストリエンの近くに弾き出されるとは思っていませんでした。それも一緒に……」 「おい、キルヒアイス」 ラインハルトが身体を起こす。 蒼氷色の瞳がやや靄って見えるのは、口にした、いつになく強めのアルコールの影響とは知れるものの、キルヒアイスもそれを指摘できる立場にはない。キルヒアイスの手元にも、琥珀色のさざ波を波々と縁近くまでも湛えているブランデー・グラスがあったのだから。 掛け値なしの危機だった。 たった二人、当時絶対的な力を誇っていたゴールデンバウム王朝に反逆を企てた一〇歳の少年二人。どんな危地に陥ろうとも、アルコールに逃避してしまうことなど考えもしなかった二人である。危機が去った後、祝杯に注がれるのは常にワインだった。 その二人が今、互いのグラスに注ぎ合うのは、ジーグラー艦長から贈られたブランデー。無造作なほどの手つきで琥珀色の酒をのどの奥へ注ぎ込むラインハルトと、それを止めようともせず、黙々とグラスを傾けるキルヒアイスである。 「ノイストリエンの近くと言っても、二〇〇〇光年も離れていれば、近くとは言えないぞ……それにだな、『バルバロッサ』は『ブリュンヒルト』と一〇〇光年も離れてタッチダウンしたんだぞ」 「いえ、違います」 「何が違う?」 「『ブリュンヒルト』が『バルバロッサ』から一〇〇光年離れてワープ・アウトしたんです」 「違う、『バルバロッサ』は『ブリュンヒルト』から一〇〇光年離れて……」 言いかけ、ラインハルトはじっとキルヒアイスを見つめる。 いきなり爆笑だった。 「この野郎、いつからそんなに性格が悪くなった?」 「ラインハルトさまのそばにおれば、だれでも性格が悪くなります。人のせいになさらないでください」 「……いずれにしても、『バルバロッサ』が俺を見つけてくれて、その上にノイストリエンブルクからの通信をキャッチしていなかったら……」 「ええ」 もう一度、今度はキルヒアイスがラインハルトのグラスにブランデーを注ぎ込む。 『グードルーン』の発する時空震に巻き込まれ、途方もない距離を一瞬に弾き飛ばされた。あのフレーデグンデ・フォン・テーオバルトの言葉は正しく、二隻の戦艦がワープ・アウトできたのは、グリームニル星系から六〇〇〇光年あまりも離れた宙点だった。全くの偶然のように『バルバロッサ』の通信機が、二〇〇〇光年余り離れたノイストリエンからのビーコン発信をキャッチし、さらに一〇〇光年余り離れてタッチダウンした『ブリュンヒルト』からの救難信号を受信していなかったら、彼らはまだ銀河の辺境宙域をあてどなく彷徨い続けていたに違いなかった。いや、もっと悪ければグリームニルからさらに逆方向やあるいは旧自由惑星同盟との間に蟠る、広大な航行不能宙域のど真ん中へ放り出されるという確率にしても、決して低いものではなかったはずなのだ。 人為の脅威なら恐れるに足りない。キルヒアイスが共にある限り、どのような人為の悪意であろうと脅威であろうと、それを噛み破り、膝下に拝跪せしめるだけの力が自分にはある。ラインハルトは疑っていない。しかし、絶対的な距離や時間……造物主の悪意が正面から向けられたとき、それを真っ向からうち破るだけの力が自分に与えられているとまでは、さしものラインハルトも自らを信じる……と言うよりも過信することはできなかった。そして、その思いがキルヒアイスの共有するところに違いないことを、ラインハルトは確信していた。 無論、この時、ラインハルトもキルヒアイスも知らない。二人を救ったのが、またしても『バルバロッサ』に組み込まれた、あの通信モジュールであることを。本来、受信できるはずのない距離からの超光速通信を、ほとんどランダムなタイミングで受信する特異な特性を持った通信モジュールだったという事実。そして、それが工作艦に紛れ込んでいたフロイデンの蝶と、そのために起こった旧帝都の帝国軍工廠での人事異動がもたらした、ほんの紙一重の偶然のもたらした奇跡に他ならないことに。 いつかブランデーの瓶が空になっていた。 皇帝の求めに応じてが二本目のブランデーを持参したとき、ジーグラー准将は僅かに頷いて従卒を呼んだ。 「皇帝陛下と主席元帥閣下に毛布をお持ちしろ」 「でも……」 居室のフロアで互いにもたれ合うようにして眠る皇帝と主席元帥を前に、幼年学校を卒業したばかりの従卒は立ち竦んだ。 「ベッドへお運びしなくても?」 「『ブリュンヒルト』の空調は十分だ」 それがジーグラーの返答だった。 「くれぐれも、お邪魔をしてはならんぞ」 「は、はいっ!」 「卿は飲めるのか?」 「え?」 「酒だ。なにを聞いている」 ジーグラー准将がブランデーの封を切るのに、従卒は恐怖に近い叫びをかみ殺している。 「か、艦長、それは……」 「俺の酒だが、それがどうした?」 「艦長の?」 「ささやかな特権だ。今日は陛下からの特に強いご要望だったものでな……で、飲むのか?」 従卒はごくりとのどを鳴らし、それから頷いた。 「頂きます、艦長……」 新帝国暦六月二五日、帝都。宇宙港から王宮までの道の両側を、皇帝と主席元帥・兼・帝国宰相の生還に歓喜する無数の民衆が埋め尽くす中、ラインハルト、キルヒアイス、アレクの三人は、約一ヶ月ぶりに獅子の泉宮へ戻った。 王宮前の広場に整列して出迎えた一同に目を走らせ、三人はちょっと眉を曇らせる。そこに居並んでいたのは、マリーンドルフ伯爵以下の帝国首脳たちだった。 「皇妃陛下は、皇宮でお待ちになっているのでしょうね……」 「お前こそ、姉上に真っ先に出迎えてもらいたかったんだろうが」 ちょっとすねた子供を思わせる口調でラインハルトで応じる。 「皇妃にしても姉上にしても、体裁など気にして奥に引っ込んでいることはないだろうに」 「体裁ではありませんよ、ラインハルトさま」 皇妃と言い大公妃と言っても政治的な権限があるわけではないのだから、となだめるキルヒアイスにラインハルトは、『お前たちがあんな風に憲法を作るからいけないんだぞ』などと反論する。無論、本気ではなかったが。 車が止まり、ドアが開かれた。キルヒアイスが身を翻して先に降り立とうとする、その肩をラインハルトの白く形のいい手がぽんと叩いた。 「いずれにしても、帰ってこられたな」 「ええ」 キルヒアイスは微笑み、頷く。 「ええ、帰ってきました」 「卿らには心配をかけた」 出迎えた閣僚と帝国軍首脳を前に、ラインハルトは彼らの労をねぎらった。別人のようにげっそりと窶れ果てているマリーンドルフ伯爵には一ヶ月もの不在を詫び、長期の休養を勧める。 「国務尚書の代行はマインホフに務めさせて大過あるまい。このようなことで伯爵に身体を壊されたりしては、皇妃にも申し訳が立たぬ」 「恐れ入ります……では、お言葉に甘えさせていただくと致しましょう。できましたなら、いずれ近い内にマインホフ卿の尚書昇任を御裁可いただけますようにお考え下さい。臣も、もうそろそろ国務尚書の任には堪え得ぬのではないかと危惧いたしますゆえに」 「また、辞めたい病が再発したな」 ラインハルトは苦笑する。 「考えておくが、伯爵も休養の間に今一度、考え直すようにお願いする。まだ老け込む歳ではあるまい」 もう一人、大病の後のように目を落ちくぼませていたのが、宮内尚書ベルンハイム男爵だった。 「卿が気に病むことなどない、ベルンハイム」 「は……しかし、シュペーア伯爵家のことを陛下にお願い申し上げたのは臣にございます。臣があのようなことを申し上げねば……」 「くどいな。仮に卿が予になにを上申したところで、裁可したのは予だ。それに、卿は単にシュペーア伯からの嘆願を予に取り次いだだけではないか。仮に、それが謀略の一環だったとしても、卿は使われたに過ぎぬ。卿が銃で狙われ、犯人を捕らえたとして、卿は銃を処罰するのか?」 「い……いえ……それは左様でありますが……」 「よかろう」 ラインハルトは微かに肩をすくめた。 「では卿にはあと丸一年間、宮内尚書を勤め上げてもらうぞ。ヴァンデルフェルト子爵に尚書を譲るのはその後だ。予のために、今しばらく卿の力を貸せ。それが、卿に対する処罰だと心得よ」 「ぎ……御意にございます」 さらにロイエンタール元帥からは、ケスラーとレンネンカンプによる大規模な対テロ作戦の展開状況に関する報告が行われる。この時点で、帝国軍艦隊主力はマルツウェルとクルツバッハ両海賊の掃討作戦に従事中であり、ミッターマイヤー元帥の姿はない。マルツウェルとクルツバッハの末路に関しても、ロイエンタールの掌握するところだった。 ラインハルトともども辛うじて帰還し、先に帝都へ帰着していたシルヴァーベルヒからの報告は、戦艦『グードルーン』が搭載していた新型ワープ機関に関する調査状況だった。 曰く、新型動力装置である対消滅炉は、まだ技術的に安定したものとは言えず、今回『グードルーン』に搭載されていたものは、細心の注意を払って制作されたものだったと思われる。また、複数のワープ機関を並行動作させ、時空震を発振させることで、周囲数光秒から数百光秒にいたる宙域を一挙にワープさせてしまう技術に関する基礎理論も確かに完成していた。艦政本部のコンピュータのデータは大部分抹消されていたが、残された断片からでも、理論の全容はほぼ解明できそうだった。 「あのドクトル・テーオバルトは紛れもなく天才ですな。これだけの理論をほとんど一人で組み立てて、実証装置まで作り上げてしまうんですから……もっとも、あのときちらっと言っていたように、実証装置の作成はシャフトの親爺にやらせたのかも知れませんけれどね。もう少し、研究を進めれば、面白い装置が作り出せそうです」 シルヴァーベルヒはそう報告を締めくくった。 さらに司法尚書ブルックドルフからは、シャフト元科学技術総監と、ニコラス・ボネなる旧自由惑星同盟の政治家がブングルド星系で逮捕された旨の報告がなされ、ラインハルトの眉を顰めさせた。 「ブングルド……だと」 ノイエシュタウフェンベルク子爵が関与しているのか、と問うラインハルトに、ブルックドルフは口を濁す。とりあえず、子爵の身柄は拘束して取り調べているが、まだ今回の動乱への関与が完全に証明されたわけではない。 不意にラインハルトは視線を司法尚書から動かした。 「卿にも何か言うことがあるだろう、オーベルシュタイン」 「は……」 「個々の事件は概ね理解できた。卿のことだ、これらを網羅した全体の絵を描いてみせる用意をしているのではないのか」 「しかし、まだ、全容が解明されたわけではありません。軽々に推測を交えて話すべきことではないと考えますが」 「では、卿に問うが、ノイエシュタウフェンベルク子爵は有罪や否や?」 「……」 「それも答えられぬか……よかろう、その件は措くとして、今度のこの事件の黒幕は誰だ。あのテーオバルトが口にしたようなベーネミュンデ一族の復讐などではあるまい。地球教徒が単独でこのような事件を起こせるほどの勢力を余していたとは思えぬ。自由惑星同盟の残党などがなぜ、こんなところに関わってくるのだ。彼らはまったくばらばらに予とアレクを陥れようと試みたというのか」 「すでに陛下は、ご自身の疑問への回答を申し述べられました」 それがオーベルシュタインからの返答だった。 「―――今回実験に供された新型のワープ機関開発者のドクトル・テーオバルトですが、科学技術総監部に入る前に現在のシュペーア伯爵領におり、そこでアイゼンヘルツ開発公社の幹部と結婚していることが分かっております」 室内がざわめく。 オーベルシュタインは特に誇りもしなかったが、これは数億件にも上る人間の移動と治療記録、さらに出生・死亡届、婚姻と財産に関する様々な書類の中から矛盾するものを見つけ、隠された事実を洗い出すという途方もない作業の結果だった。のちにフェルナーは、『気の遠くなるような書類の突き合わせ作業のささやかな成果』と、その手記の中で述べている。 「アイゼンヘルツ……」 ロイエンタールが眉を顰めた。 「あのアイゼンヘルツか?」 「左様、あのアイゼンヘルツだ」 禅問答のような会話だが、ラインハルトにはそれと分かった。 「つまりは旧帝国とフェザーンのかつての大資本の巻き返し……という可能性もあるわけだな」 軍務省も眠っているわけはなかったのだな……揶揄に満ちたロイエンタールの言葉にも、オーベルシュタインは表情を変えなかった。 「統帥本部では地球教徒と旧自由惑星同盟の民主主義原理主義者も一枚噛んでいると見ている」 「この件に関して、皇妃陛下にご報告申し上げた際、皇妃陛下からご下問がありました」 「ヒルダ……いや、皇妃<カイザーリン>が?」 ヒルダは指摘したという……つまり、複数の陰謀が同じシュペーア伯爵領で交差した結果が、今回の動乱を引き起こしたのではないか。皇帝ラインハルトの類い希な政治的指導力を一時的にでも失わせ、その間に経済的に大きな力を持った勢力を味方に引き入れ、帝国の裏面への浸透と旧勢力の復活を図る、というのが、今回の事件の大きな背景ではないのか……と。 「皇妃陛下のご指摘通りであったと、小官は考えております」 要すれば、旧自由惑星同盟とフェザーン、民主主義と自由な商人の国を標榜していた国々の裏面の支配者層。もう一つは旧帝国にあって門閥貴族と結託していた経済的な支配層。ラインハルトによって、ことごとく一掃された“今ひとつの門閥貴族”どもの復讐戦。それが、今回の“シュペーア動乱”の真の姿であったらしい。 「旧自由惑星同盟とフェザーンを代表していたのが、このボネなる人物を傀儡にし、イニエモフなる地球教大司教とマルツウェル・グループを実行犯に仕立て上げた一派と思われます」 「イニエモフは、バーラト自治政府からサイオキシンその他の合成麻薬密売の容疑で指名手配されております」 司法尚書が補足した。 「実行犯としての報酬は、イニエモフには新たな地球教……と言うより麻薬密売組織の拠点、マルツウェルには陛下への復讐の機会。そんなところでありましょう。最終的な目的は、あくまでシュペーア伯アレクシス卿を傀儡に仕立て上げ、シュペーア伯爵家の経済的な実力を握ること」 「復讐の機会……だと?」 「アンスバッハの果たせなかった、陛下への復讐です」 軍務尚書の口から淡々と流れ出た固有名詞に、ラインハルトは思わず眦を上げる。彼の目前にハンド・キャノンの砲口を突きつけ、主君の復仇を宣言した男。数多くの復讐者、暗殺者の中で、ラインハルトをヴァルハラの門の最も至近にまで追い詰め、紙一重の差で、彼の半身たるキルヒアイスの生命をも奪いかけた男の名前だった。 ラインハルトにはアンスバッハへの憎悪はない。正々堂々……と言うには異論があるにしても、死を決して主君の復仇を挑んできた姿に憎悪を感じるのは、少なくとも彼には難しかったのだから。 「アンスバッハの部下だったのだな」 「御意」 マルツウェルを動かしていたのが憎悪だったことだけは間違いない。アンスバッハのような直線的なものではなく、アレクに“敗北宣言”を出させようとする歪みねじ曲がった形を取って現れたにしても。 「いま一つのグループですが……」 主君の思いには頓着なく、軍務尚書は言葉を続ける。 フレーデグンデを手先に使ったのが、今ひとつのグループ。すなわち、旧帝国貴族の背後にいた資本家グループであろう。彼らは手の込んだ罠を仕掛け、ラインハルトと、ラインハルトの重臣の内の何人かを一時的に行方不明にし、その隙にノイエシュタウフェンベルク子爵家の乗っ取りを図ったものと思われる。 はっとしてキルヒアイスが顔を上げる。 「では、あの密告状は?」 「キルヒアイス閣下、統帥本部総長、宇宙艦隊司令長官、もしくは国務尚書か、さもなければ小官。この五人の内の一人でも、陛下をお迎えに宇宙へ飛び出していけば、『グードルーン』を使って、もろともに宇宙の彼方へ吹き飛ばしてしまう……そういう罠だったということです」 「では……わたしは、見事に罠にかかったと言うことですね」 「分かっていてもかからずに入られない……と言う点では見事な罠だったと評せざるを得ませんな」 ボネについては、彼から搾り取った情報を、モーリッツは少なくとも隠し立てすることなくノイストリエンへ通報している。シャフトがブングルドで捕らえられたのが、おそらくはこのグループの作為だっただろう。 「モーリッツ卿を窮地に陥れ、有利な条件で取引を成功させるもくろみがあったものと思われますが、まだ推測に過ぎません」 オーベルシュタインの言葉に、ラインハルトは思わず苦笑していた。 「軍務尚書」 「は」 「卿は答えられぬと言っておきながら、すでに答えているではないか」 「お言葉の意味が理解致しかねます」 「まあ、いい。つまりは皇妃<カイザーリン>が推測したとおり、複数の陰謀がシュペーア伯領で絡み合って現れたために、今度のような大きな動乱につながったというのが卿の推測なのだな」 「御意」 「詳細はさらに調査を進めよ」 無表情のまま深々と一揖するオーベルシュタインから、ラインハルトは居並ぶ閣僚たちに視線を移した。 「苦労をかけた。予が不在の間、よく帝国を支えてくれた。予は卿らを誇りに思う」 ☆☆☆ ラインハルトとアレク、それにキルヒアイスが皇宮へ戻ったのは、もうすでにとっぷりと日が暮れてからのことだった。長時間の閣議につきあわされたアレクは酷く眠そうに目をこすっていたが、皇宮の入口に立つ人影に気づいた瞬間、眠気などどこかへ吹き飛ばしたようだった。 「ラインハルトさま、アレク!」 「お帰りなさい、ジーク」 アレクがヒルダに飛びつき、キルヒアイスはアンネローゼを抱きしめる。一人、アレクに先を越された格好のラインハルトだったが、無限の信頼を込めたブルー・グリーンの瞳に出迎えられていた。 ふ、と違和感に襲われ、ラインハルトは言葉を詰まらせる。 「……その、皇妃<カイザーリン>」 「お帰りなさい、ラインハルトさま」 「う……む、ああ、遅くなって済まなかった」 複数の、ぷっと吹き出す声が聞こえた。 「なにを笑ってるんだ、キルヒアイス。いい加減に姉上を離さないか。いくら夫婦でも、人前だぞ」 「そんなことをおっしゃっても、ここにはラインハルトさましかおられません」 「皇妃<カイザーリン>もいるし、アレクだっているんだ」 「そうね、ちょっと遅くなったけれど、早く夕食にしましょう。久しぶりだけど、ここのキッチンを使わせてもらったわよ、ラインハルト……いえ、皇帝陛下」 「姉上まで! からかわないで下さい。せっかく帰ってきて、いいムードだったのに……」 ぶつぶつと言いながらも、ダイニングの方から漂ってくる料理の香りが自然とラインハルトの脚を速くする。思いは同じらしく、キルヒアイスとアレクもいつのまにか早足になっていた。『ブリュンヒルト』にしても『バルバロッサ』にしても一ヶ月やそこらの航行で食糧不足に陥ることはまずない。が、限られたスペースに搭載する関係上、食事が味気なかったり、単調になったりする傾向はどうしても避けられない。まして、宇宙で孤立した戦艦の中である。 贅を凝らしたと言うわけではなかったけれど、アンネローゼの心づくしの手料理は、ラインハルトたちを満足させて余りあった。 食後、泊まっていけと勧めるラインハルトに、キルヒアイス夫妻は『子供たちが心配だから』と皇宮を辞したのだが、その直前、アンネローゼがラインハルトに声をかけた。 「ちょっといいかしら、ラインハルト」 「なんですか、姉上……久しぶりにキルヒアイスが帰ってきたから、二人っきりでどこかに休養に行きたい、など言うのはなしにして下さい」 「あら……」 アンネローゼは大きな目を見開く。ラインハルトよりも五歳年長で、時には母親代わりでもあった彼女だが、キルヒアイスと結ばれてからはこういう無邪気な表情を見せることも多い。一四、五歳のころの姉は、時々こういう顔をして見せていた。幸せなのだな、と再確認するラインハルトである。その想いは、ほんの微かな寂しさに似た彩りを帯びた喜びでラインハルトの心を包む。 「いけないの?」 「予定外で一ヶ月も帝都を空けたせいで、決裁待ちが山のようですから。帝国宰相にもしばらくはつきあってもらわねば。夏には長めの休暇が取れる予定ですけれどね」 「期待させてもらうわね……でも、そのことじゃないの。時間はいいかしら?」 「皇妃<カイザーリン>は今、アレクを寝かしつけていますから……何です?」 「ヒルダさんのことよ」 「ヒルダ……の?」 動乱の最中、アンネローゼはずっとヒルダに付き添っていた。軍務尚書や統帥本部総長、国務尚書が入れ替わり立ち替わり、状況報告に訪れる。憲法上の制約から、ヒルダが判断を下したり、裁可を与えたりはできなかったが、彼女の質問や、ちょっとした一言が歴戦の彼らにとっても大きな助言となっているのが、アンネローゼから見ても明らかだったのだ。 「ええ、それは分かります。オーベルシュタインにしてもロイエンタールにしても、皇妃<カイザーリン>からの質問で助けられていましたから……」 「それで、ヒルダさんを共同統治者にしよう、と思っているのではなくて?」 「え?」 アンネローゼの端麗な表情が微笑を消しているのに、初めてラインハルトは気づく。彼が誤った道へつま先を向けようとしたとき、必ず姉が見せた表情がそこにあった。応じて、ラインハルトの表情も真摯なものに変わる。 「でも、あれだけの判断力を持った皇妃が、わたしの妻だという理由だけで政治から遠ざけられているのはやっぱり……」 「そのためにヒルダさんがどれだけ苦しんでいたとしても?」 「え―――S」 「アレクに送った連絡のこと、聞いているわね?」 あの後、まる一日以上、ヒルダは食事ができなかった。いや、それ以来、ヒルダの食は急激に細くなった。案じたアンネローゼが特製のスープを…これはアンネローゼ自身、心労の余りにスープくらいしか口にできなくなっていたためでもあったのだが…日々作って勧めていなければ、ヒルダは確実に倒れていただろう。 それでもヒルダは王宮に出向き、報告を受け、状況を把握することを辞めなかった。蒼白を通り越して白蝋のようになった顔色を隠すために、滅多に化粧をしないヒルダがあえて厚化粧を施し、濃い頬紅を刷<は>くのを手伝ったのもアンネローゼだったし、痩せの目立ってきた身体のラインを隠すための服装選びも彼女の仕事になった。 「―――わたしにはヒルダさんのような判断力はないし、ただおろおろしているだけだったわ。でも、分かる、ラインハルト?」 「え……ええ」 「ヒルダさんはあなたの奥様で皇妃陛下だけれど、アレクたちの母親なの。そのことを忘れないでね。一つ間違ったら、あなたが亡くしていたのはアレクだけじゃなかったかも知れないのよ」 「……分かりました、姉上」 大きく頷き、それからラインハルトは、びっくりしたらしいアンネローゼが小さく悲鳴を上げるのにもかまわず、姉を抱きしめた。 「……ラ、ラインハルト、何をするの」 「ありがとう、姉上」 「ラインハルト……」 「……なにをなさっているんです!」 いきなり声が降ってきた。 「なにをしているって……姉上を抱きしめたくらいで目くじらを立てるな、キルヒアイス!」 「アンネローゼさまはわたしのものです、もう陛下のものではありません」 「この野郎、姉上を譲ってやった恩を忘れたな」 「いいえ、ラインハルトさまに譲っていただいたのではなく、わたしがアンネローゼさまを選択し、アンネローゼさまにわたしを選んでいただいたのです」 「この、ああ言えばこういう……」 最後は爆笑で終わる。 キルヒアイスたちが辞去したとき、すでに夜はとっぷりと暮れ、夜空には鮮やかな『双子銀河<トゥイン・ミルキィウェイ>』が、巨大な二筋の流れを見せていた。 出てみないか、というラインハルトに誘われるまま、ヒルダはテラスで夜空に見入っていた。 「ヒルダ、まだ言っていなかったな」 「何ですの?」 「ありがとう」 「え……?」 「アレクを支えてやってくれて……あなたがいなかったら、アレクがどうなっていたことか。力になれずに済まなかった」 「いいんです、ラインハルトさま……ラインハルトさまは帰ってこられました。アレクも無事に、それから皇太子としてのつとめを立派に果たしました。それで、十分です」 静かにラインハルトはヒルダを抱き寄せる。はっと身体を固くするヒルダだったが、その前に彼女の身体はラインハルトの胸に抱き寄せられていた。その身体は、ラインハルトの記憶にあるのよりも明らかに肉付きが薄くなっていて、アンネローゼの言葉を裏付けていたのだ。星明かりの下で青白く透き通るような色合いを帯びたヒルダの頬が、彼女の今の健康状態を示して余りあるのを、改めてラインハルトは確認する。再会したときの違和感……それがヒルダの顔色だったことも。 ―――あなたが亡くしていたのはアレクだけじゃなかったかも知れないのよ。 アンネローゼは決して責めてはいなかったけれど、その言葉は鋭い錐となってラインハルトの胸を刺し貫くようだった。 自然にヒルダを抱きしめる腕に力が籠もる。 「……済まなかった、ヒルダ」 それ以外の言葉はなかった。 くすんだ金髪が星の光を弾いてゆらと動き、ヒルダがこくりと頷いたのが分かった。 テラスから室内へ戻るとき、ヒルダは尋ねている。 去り際、ラインハルトはキルヒアイスの耳元でなにごとか囁き、キルヒアイスは真っ赤になって慌てて辞去の言葉を継げたのだ。 「何とおっしゃいましたの?」 「特別なことじゃない」 ラインハルトは口調も変えなかった。 「久しぶりなのは分かるが、姉上は心労でひどくお疲れだから、今夜は慎め。予も慎む、とな」 「陛下っT」 (―――また、この落ちか、猫屋ぁっ!―――) ☆☆☆ ノイエシュタウフェンベルク子爵モーリッツに対する処断をラインハルトが決定したのも、七月に入ってからだった。 「話はすでに詳しく聞いている。顔を上げるがいい」 傍らにキスリングを佇立させ、高々と脚を組んで座した玉座からラインハルトはモーリッツを見下ろしている。モーリッツは膝をついて皇帝を出迎えはしたが、その目は決して裁きを待つ被告人のものではない。 「予と主席元帥の艦を救援し、ノイストリエンブルクにおいてアレクサンデルの危難を救う働きは見事だった」 「恐れ入ります」 「だが、ノイストリエンブルクからの救援要請に直ちに応じなかった卿の怠慢もまた、責めねばならぬ」 「は……しかし、同時期に軍管区内には海賊が猖獗し、レニアーノ、イコニオン、サレフなどなど多くの有人惑星が海賊の制圧下に入っておりました。これらへの救援を無視し、ただノイストリエンブルクだけを救う判断は、なかなかに困難でございました」 「シュペーア伯爵家に予が与えた軍管区での軍権を継承させよと要求したな?」 「致しました」 モーリッツは悪びれない。長期にわたった軍務省と司法省での取り調べも、この男の眼光を弱めることはできなかったようだった。 「臣に第一辺境軍管区での軍事的指揮権は全くございません。有り体に申し上げれば、陛下をお救い申し上げたときも、臣は帝国軍の軍令承行規定を完全に無視しておりました。陛下と主席元帥閣下の艦と運良く巡り会えたからよかったようなものの、臣があのままノイストリエンへ向かっても、指揮権の混乱が生じたことは間違いございませぬ。さすれば、皇太子殿下も、ミュラー元帥も、さらにはシュペーア伯爵家そのもののをも救うのは困難であったことでありましょう」 「卿の能弁は認めよう。その弁ずるところの一部も、な」 ラインハルトはモーリッツを遮る。その声は決して激昂したものではなく、むしろ苦笑を含んでいたかも知れない。 「だが、卿が帝国の危機に乗じて、自らの利益を図ったことは間違いない。異論があるか?」 「ございません」 モーリッツは言う。アルベルトもシュパイデルも一個制式艦隊を指揮して、辺境の治安を維持するだけの軍事的才幹には疑問のある人材である。アレクシスはまだ少年であり、問題にならない。とすれば、彼自身が第一辺境軍管区の軍事的指揮権を継承する以外の選択肢は残されていないではないか。 ラインハルトは苦笑した。 「卿にはそれだけの才幹があるというのか。先の弁舌といささか矛盾するように聞こえる」 「畢竟、軍とは上位下達の組織です。誰が上位で誰が下位、明文をもって定めねば混乱するとそう申し上げただけです」 「よい。要するに卿はノイエシュタウフェンベルク子爵家の利益は図った。しかし、同時に帝国とシュペーア伯爵家にとっても最良の選択と信じて、軍権の継承を要求した。帝国はこれを拒否したが、卿は最終的には危険を承知で艦隊をノイストリエンブルクへ派出した……そう主張するのだな?」 「御意にございます」 「軍権継承の要求が、アレクサンデルの生命か、帝国の威信かの二者択一を帝国に迫ったのだと言うことも卿は知っていたのか」 熾烈な光の加わったラインハルトの眼光を、モーリッツはさりげなく視線を逸らして受け流した。が、反論は辛辣だった。 「陛下は私情よりも帝国の利を優先されるお方。ゆえに、帝国臣民は陛下をご支持申し上げるものであります」 「予を脅迫するのか」 「いえ、事実を申し上げております」 「口の減らぬ男だな、卿は」 「恐れ入ります」 「卿は……機会があれば、さらに高処<たかみ>を望むか?」 「御意にございます」 ラインハルトは微笑う。彼はこの手の男を完全に信用することはなかったが、危険と認めて排除するよりも、彼らに自らを仰がせ、その指揮に服させることを好んだ。 「予に隙があれば、挑んできてもよいのだぞ、モーリッツ卿。野望を持つことを予は禁じぬが、自らの器に見合った野望に納めておくことだ。案に相違したときにいかなることになるか、卿もよく考えてみることだな」 「御意……陛下が臣ごときに隙をお見せになるとはまったく思えませぬが」 応答にみじんの揺らぎもなかった。キスリングが微かに肩を揺らせ、佇立する位置を変えたようだった。 謁見室を沈黙が覆う。ラインハルトは焔を封じ込めた蒼氷色<アイス・ブルー>の双眸をモーリッツに据え、モーリッツは薄い銀色を帯びた目で皇帝の凝視を受け止めていた。獅子の泉宮の王宮の奥まった位置にある謁見の間には、帝都の喧噪はほとんど伝わってこない。微かな空調の音と、時折、廊下を通り過ぎるらしい足音が聴覚を刺激するすべてだった。 「モーリッツ卿、卿に言い渡す。卿のノイエシュタウフェンベルク子爵としての地位はそのまま保証する」 無造作な調子で、ラインハルトはその言葉をモーリッツの前に放り投げた。 「ありがたき幸せに存じます、陛下」 ややあってモーリッツの声が室内の空気を震わせた。 「ただ、卿も申したとおり、シュペーア伯爵家には人がおらぬゆえ、卿らの軍権継承を認めることはできぬ。ゆえに第一辺境軍管区の軍事的指揮権は帝国軍が直接これを継承する」 「へ……陛下、それは……」 初めてモーリッツが愕然と色を失ったようだった。思わず反論に出ようとするその面上に、鞭のようなラインハルトの声が飛ぶ。 「予が話しているのだ」 「……!」 「アレクシス卿はなかなか優れた人物になりそうだ。アレクサンデルがそう言っていた。アレクシスをひとかどの人物に育て上げ、帝国の重鎮たらしめよ。これが、今次の動乱に対しての、卿らシュペーア一族の償いと心得るがいい」 「は……」 「過ぐる折り、シュペーア伯爵家は予と予の友人に対して多大な貢献をなしてくれた。シュペーア伯には多少以上の恩義がある」 「ぎ……御意」 「ゆえに、卿の義務として命じる。シュペーア伯アレクシス卿をよく補佐せよ。軍務尚書の捜査に協力し、なにごとも隠し立てをしてはならぬ。また、二度と叛徒どもに付け入られるような醜態を見せれば、卿も無事ではおられぬことを銘記するがよい……分かったか、モーリッツ・フォン・ノイエシュタウフェンベルク」 今度こそ、モーリッツの頭はフロアに打ち付けられるように深く伏せられ、皇帝の意に服する旨を示した。 のち―――幾多の紆余曲折を経た後、アレクシス・フォン・シュペーアはローエングラム王朝第二代皇帝アレクサンデル・ジークフリードを支える帝国の重臣の一人に成長するのだが、それはもはや後世の物語に属する。 おなじく七月。 ラインハルトは、昨年布告したアレクサンデル皇太子の摂政に関する規定の修正を勅命をもって公表する。 曰く、皇帝ラインハルトの皇妃ヒルデガルトただ一人に限り、皇太子アレクサンデルの摂政役を主席元帥キルヒアイスと共有するものとする。 “シュペーア動乱”でヒルダが見せた優れた国政能力から、彼女を共同統治者に据える勅命を期待した閣僚たちは意外の感を禁じ得なかったが、これが姉アンネローゼからの忠告に対するラインハルトの回答だったのである。 P.S. 動乱から数ヶ月後のキルヒアイス邸。 庭木の手入れをしていたアンネローゼは、奥まった一角の木の枝にさしかけられている封筒に気づいた。 「―――また」 息せき切って戻ってきたアンネローゼに、キルヒアイスも顔色を変えた。あわただしく封を切る。 黄金獅子の紋章の入った便箋にただ一行の文字。 『先日は楽しゅうございました。また、遊んで下さいませ。F<フレーデグンデ>.R<ロゼマリーエ>.F<フローレンツ>.v<フォン>.T<テーオバルト>』 事件が完全に終息するまでには、まだ時間が必要なようだった。 (やっと、終わった) 1