騎士物語1
(1)その夜
カリカリカリ――と、カミューの執務室にはペンが紙の上を滑る音が響き続けていた。
公国騎士団赤騎士第五部隊、部隊長としては末席であるその隊長職にカミューが就いてから、最初の年末が近づいていた。
いまだ十七才、正騎士に叙位されてわずか二年半での騎士隊長就任は、長いルーヴェルの歴史の中でも類をみない、士官学校の同期の中では出世頭と言われていた。わずか十歳の時から、当時、今のカミューと同じ地位にいた現副長コーレルの、従者となって常にそばに付き従い、城での日常の流れをすべて体で知り尽くしていたこと、紹介をうけて特にすばらしい剣技を持つ引退騎士の道場へ通わせてもらえた経験などが大きな要因だったろう。
だがそれらの何にもまして、カミューというこの若者の持って生まれた素質と、苦労をいとわない心根は、誰もが認めるところであった。
さらには故郷エルベテールで亡き父や兄たちからうけた教育と、母と二人きりでルーヴェルに来てからの、彼女の期待に応えたいという彼の気持ちが大きく作用しているのは間違いなかった。
年が明ければ十八になろうという若い騎士隊長は、成長期の無尽蔵の体力と、鍛え抜かれた精神力とで書類の決裁を進めていた。降誕祭から年越しに続く、長い休暇の前には、多くの請願状や予算編成が集中する。
カミューはすでにここ一週間近く、騎士隊長とその補佐官以上にのみ許される城内の私室で仮眠をとる以外は、机に向かい続けていた。時折、自部隊の演習や、城外の荒れ地などを疾駆する馬術訓練に参加して気分転換を図る以外は、朝から晩まで会議と決裁にのみに、彼の集中力は傾注され続けている。
今夜もまた、昼過ぎに部屋に運び込まれた片手でつまめるサンドイッチと、これも書類を読みながらでも食べられるようカップにいれたスープといった軽食でしのぎながらの事務作業であった。
「ユリアス、これを」
一通り目を通して、必要なものには署名をし、修正が必要だったり、疑問を感じた部分には付箋を貼付して束ねたものを、傍らの机で他の書類一式を捌いていた補佐官ユリアスに渡すべく声をかける。
「ありがとうございます」
自席からすっと立ち上がった補佐官、カミューよりは十二才ほど年上になるユリアスは、生粋のルーヴェル人らしく、濃い茶系の髪とおだやかな鳶色の瞳の持ち主だった。もちろん士官学校の卒業生であり、その姿勢の正しさと華やかな外貌から儀仗部隊に推薦されたこともあったが、みずから望んでコーレルが筆頭部隊長になった折に彼の第三補佐官となった男であった。
有能な事務官であり、いまや副長となったコーレルも目をかけていたが、若すぎるカミューが末席とはいえ、騎士隊長を拝命することになった時、餞<はなむけ>として、彼自身の了承のもと、カミューの筆頭補佐官に推薦され着任した。
「それで足りるかな……?間違いないと思ったものは全部署名をしたけれど……。ちょっと再検討の余地がありそうなものは印つけておいたから」
渡された書類の束にざっと目を通し、ユリアスはにこりと笑って頭をさげた。
「これで結構です。明日までに上層部に提出しなければならないものはすべて、ご裁可をいただけたようですから、こちらの、ご相談が必要な束は後日のことに致しましょう」
「うん、そうだね……、あ」
部下のほとんどが自分より年上という状況に、どうにか慣れてはきたものの、二人だけで執務室にいる時など、つい平易な言葉使いになってしまうことに気づき、カミューは慌てて言い換えた。
「よろしく、頼む――」
少し照れたような表情に、ユリアスは年の離れた弟をみるような優しい目を向ける。
「はい、かしこまりました」
ユリアスは一礼して書類を受け取ってから、表情を改めた。一瞬にして上司を支える補佐官から、年長者の顔になる。
「それよりもカミュー様、今宵はもうご退出あってはいかがでしょう?」
「退出?」
「少しでもいいのでお休みになっては頂けませんか?」
「休む……?」
カミューは不思議な言葉を聞いたかのように、首を傾げた。それを見たユリアスは、やはり……というように嘆息して告げる。
「お気づきではないかもしれませんが、今日でもう五日になります」
「うん?」
「このところずっと城内のお部屋で仮眠を取られるばかりでしたでしょう?」
士官学校を出て正騎士として叙位され、それを望めば、普通は城内に二人部屋が与えられる。扉は共用だが、室内中央に仕切りがあり、それぞれに寝台と机、それに私物を入れる戸棚などが置かれる部屋である。個室でこそないが、指揮権を持たない平騎士であれば部屋に四人、五人と詰め込まれるのだ。彼らに比べたら、卒業したてからの二人部屋は十分な優遇だったが、カミューは外に暮らすことを選んだ。
かつて従者として仕えたコーレルとその妻エリスからは、屋敷には部屋が余っていることだから、戻ってきて一緒に暮らさないかと声をかけられていたが、それもまた、癒着と取られる可能性がある。
ゆえに彼は城からそれほど遠くない城下での下宿住まいを選んだ。騎士の未亡人が、独り者の騎士や候補生に貸している一軒家である。かつて、上級騎士まで進んだ人物の旧宅だけあって、きちんとした厩舎も備えられていて、城とは馬で行き来できる。馬丁は、この家の以前の奉公人の一人を紹介されて雇った。
時間に不規則な生活にも慣れており、洗濯と部屋の掃除をしてくれて、頼んでおけば食事も出してくれるそこは、いまカミュー一人を引き受けてくれていた。
騎士隊長ともなれば、部下は百人を越える。当然自分だけの家をもち、メイドや馬丁を雇い、従者として務めたい若者を預かる……のが普通であるが、彼はそうしなかった。彼自身、いまだ十八にもならない若さであり、家に帰ってまで年上の使用人に囲まれるのは……と、そのまま下宿生活を続けることにしたのだ。
信頼する補佐官の言葉を聞き、カミューはしばらく考えこんだが、やっとその意味を理解したようである。
「うーん、そうだね、そういえば……」
大家の老婦人の顔もしばらく見ていない。孫のように可愛がってくれている彼女は、彼が戦いに出た時や、仕事が忙しくて戻れない日が続くと、本当に心配してあれこれ気遣いを見せてくれる優しい女性なのだった。今夜はもう遅くても、メモを残せば明日は一緒に朝食をしたためることができるかもしれないな……。
「別に大丈夫だけど……。今回のこの山が終わったら帰る……」
そう告げるとユリアスは小さく笑って、積み上がった書類の山を押さえ、首を振った。
「いえ、いけません。昨晩も私が下がらせていただいた二十二時を過ぎて、日付が変わってもお仕事をしておられましたね?何時にお休みになりました?」
「えっと……何時って――一時くらい?」
「カミュー様?」
「あ、えぇとに、二時…、いや、半?」
「えぇ、その頃に、ここを引き上げられたとして、お部屋に戻って着替えてお休みになった時間は?」
優しい声でそう言われ、ちらりと補佐官の顔を見上げるカミューである。ユリアスの声はとても穏やかなのに、デスクの前に立って彼を見詰めるその目はまったく笑っていなかった。
「よ、四時?」
「――のようですね。お部屋の灯りが消えたのがそのくらいだったと、外を警邏していた青騎士が言っておりましたから」
「……仕事を進めておこうと思ったんだよ」
「それはとてもありがたいことで、おかげで今日は予定より随分と進みがよぅございました。ですが、なにごともやりすぎは禁物――」
「わかった」
このままでは際限なく続きそうなユリアスの小言を予期してカミューは素直に頷いた。このあたりは周囲を大人に囲まれた自分がまだまだ若輩者と理解している彼の好ましいところであった。
「明日も朝の報告会の予定がございません」
「……?」
「騎士団長殿もコーレル副長も、昨晩から公会議にご出席でお留守ですから。今夜は会議後の懇親会にご参加ですし、ご帰城は明日の昼前かと――」
「あぁ、そうか!そうだったね。すっかり忘……、いや……失念していた」
「えぇ。公会議のことはご存知でしたでしょうが、このところあまりにもお忙しすぎましたゆえ」
今朝も会議はありませんでしたでしょう?ですからゆっくりお休みいただきたかったのに、カミュー様はいつもの時間きっかりに執務室においでになりましたね、そう言われてみれば、今朝はいつもの集まりがなかったような――。書類仕事が連日のルーティンのようになっているいまは、途中で何が抜けたかもわからなくなっていた自分に気付き、カミューは困ったような笑みを浮かべた。
「まぁ、この所、本当にお忙しかったのですから無理はありませんが――」
「他の騎士隊長殿やレオニダスも、もちろんみんなこんな時期を乗り越えてこられたんだよね」
「そうですとも。私も一時期コーレル様のところでお手伝いさせていただいていましたが、あの方も大変にお忙しくて……」
「そうか、ユリアスは本当はコーレル様の補佐官だったのに……、私の所に回されてしまって――残念だったろうね?」
「いいぇ、とんでもない。想像したよりも遙かに頑張り屋さんで優秀な上官に恵まれたと、いまは推薦してくださったコーレル様に感謝しておりますよ」
心から信頼する補佐官にそう褒めてもらったのが嬉しかったのか、カミューは照れたように少しだけ俯いて、やがてペンを置いた。
「それじゃ、今夜は早めだけど家に戻らせてもらうかな」
「えぇぜひ。そして明日はゆっくりとお休みになって、もしよろしければ午後からでもご登城下さい。そうしましたら、私も少しゆっくりさせて頂けますゆえ」
冗談のようにそう言って、ユリアスはくすりと小さく笑った。いまだ三十手前、働き盛りの青年騎士が実は上司を越える働き者であることを知るカミューは、それを聞いて嬉しそうに破顔した。
「騎士服はここにお残しください。あとで従卒に手入れを命じますから」
そう言って、隊長執務室の一角に備えられたクローゼットの扉をあける。そこにはカミューがプライベートで外出する時に愛用している上着とズボン、柔らかい革の長靴と毛織物の外套がしっかり収められていた。
「……もしかして、最初から今日は家に帰すつもり、だった?」
「えぇ。今日でなかったらいつがあります?」
「うーん、そうだな。降誕祭の休日に入ってからならゆっくり……」
「いくらカミュー様がお若くてお元気でも、それでは過労死してしまいますよ。とにかく、早くお帰りになってゆっくりお休み下さいませ」
「わ、かった。ユリアスは?」
「私はここを整えてから退出させて頂きます」
「ん。では明日の執務は午後からに。ユリアス、君もきちんと休んでくれるよね?」
「はい」
敬礼し、ユリアスは書類を携えて一旦室外に消える。
身軽に立ち上がり、手渡された服に着替え、外套を手に執務室を出たカミューは、廊下に佇立して待っていたらしいユリアスの姿にぎょっとなった。どうやら、本当に彼が退出するかどうかを見張っていたらしい。
「ユ、ユリアス……」
ちょっと狼狽えて言葉に詰まるカミューに、ユリアスは人の悪そうな笑顔と共にもう一度敬礼した。
「お休みなさいませ、カミュー様」
「あ、ああ、おやすみ、ユリアス」
愛馬の待つ厩舎に向けて立ち去っていくカミューを見送ったユリアスはほっと息をついて肩の力を抜く。無論、この時の彼らに、それから起こる騒動はかけらも予見はできなかった。
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時刻はすでに夜の十時を回った頃だろう。
泊まり込みで連日遅くまで続いた事務的仕事が一段落したことで、今夜くらいは自宅へ戻りゆっくりと休んできてくださいと、補佐官の筆頭たるユリアスに、まるで追い出されるように帰宅を促された帰り道であった。
騎士隊長に昇格したことで与えられた城内の一室は、もちろん湯浴み場所も付随する大きめな一部屋で、奥まった一角に周囲を覆う布がさがる四つ柱の寝台が置かれている。簡易キッチンとも言える湯沸かしと暖炉、それに柔らかくて大振りのソファもあって、カミューはそこを大変に気に入っていた。
気に入っているとはいえ、城内のこと、なにか騒ぎがあればすぐに連絡が入るし、常に人の気配はあり、仕事を忘れてリラックスすることは不可能に近い。だが、騎士団長、副長と隊長職がそれぞれの補佐の立ち会いのもと、毎朝行われる報告会議の時間は厳守で、いかに前夜が遅くとも、欠席は許されない。となれば忙しい時期はいっそ城に泊まってしまったほうが眠る時間は少しでも多くなる……というのがカミューの持論ではあったのだが。
それにしても、このところ忙しすぎです、ともう丸五日にわたって下宿に戻っていないことを指摘され今日こそはと下城することにしたカミューであった。借りている部屋は、城下東五区。中下級の官吏や商家の勤め人、上級の職人や家族持ちの一般騎士などが多く住む閑静な地区である。
「さて、どうしようか」
栗毛の愛馬フローラの鞍の上、帰路を辿りながらカミューは独りごちる。ここ数日、帰宅できないと伝えてはあるが、頼みさえすれば老婦人は今日の食事の残り物から何かを見繕ってはくれるはずだ。ただ、そうは言っても、祖母ともいえる年齢の女主人を、いまの時間からたたき起こして食事を頼むのも気がひける。
「どこかでなにか食べて帰るか。こんな時間だけど……」
公都城下の下町であり、繁華街としても知られるのは、どちらかと言えば城の南側。東側にあるこの地区は、夜が比較的早い。開いている店はよほど遅くまで夜なべ仕事などをする職人達を相手にする屋台ぐらいのものである。そして、騎士たる者は屋台での立ち食いは禁止されている……のだが、馬上、視線を巡らしたカミューの視野には、その屋台らしい明かりすらすでに見当たらない。すでに街中の店はほとんどが閉まっているものと思われた。
「これは……しくじったかな。何か城で手に入れてくるんだった」
カミューは後悔したがもう遅い。仕事に熱中している時はさほど空腹を覚えなかったとしても、彼もまだ若い青年である、このまま眠る……のはちょっと厳しいかなと思いつつ、一本裏の路地へと馬を進めた。
「あ……」
少し先、うらぶれた感のある小さな窓から、明かりが漏れているのをみつけてそちらへ向かう。城下東街区の北側、北東街区と呼ばれるあたりで、細い路地が迷路のように行き交い、粗末な家々や場末の居酒屋などが密集している。治安もあまり良いとは言えないが、カミューは余り気にしていなかった。
居酒屋か、それに類する店の看板らしきものも見える。食事は無理でもなにか簡単なものを買うことくらいはできるかもしれない。
「酔いどれ鯨……か。変わった名前だな、こんな店あったっけか?」
店先にフローラの手綱を繋ぎ、カミューは粗末な扉を押し開いて店内に入った。出迎えた食べ物と酒の匂いに、カミューはさすがに胃の腑が空腹を訴えるのを感じた。
「お邪魔するよ、まだ、なにかできる?」
「ん…?」
テーブルが三つほどの小さな居酒屋風の店だった。厨房の奥でぼんやりと雑誌らしいものをながめていた、主人とおぼしき男が一人、目を上げてカミューを胡散臭げに眺めた。
「店はもう仕舞うところだし……酒も出せねぇんだが」
何故だかカミューは首筋がちりちりするような嫌な感じを味わった。何だ、これは。
誰かが私を観察している……のか?
「なにか余り物でいいんだが、すぐに終わらせるよ。酒は要らないし、持ち帰りにしてもらっても良いよ」
「……そうかい。残念だが持ち帰りはできねぇ……まあ、残り物で良いなら。パンとシチューくらいしかねぇが……で、剣士様はどこからおいでなさった。今夜の宿はおありなさるか?」
騎士服から普段着に着替えたカミューを、店のオヤジは遅くに街についた旅の剣士とでも思ったのだろう、
「ああ、エルベテールからね。仕官の口を探しに来たんだ。騎士団は無理だろうけど、貴族様の護衛の口くらいはあるかもって思ってね。今夜は、東一区っていうのかな、そこに住んでいる友人に泊めてもらうんだ」
「へぇ、こっちに友達がいなさるのか」
「そう。けれど思ったよりも途中で時間を食って……。いくらなんでも今ごろ到着して、食事も出してくれとは言い難いからね」
公国赤騎士団第五騎士隊長……公的な身分を明かすのは得策ではない。とっさにカミューは思いついた偽りの身分を口にした。もっともエルベテール出身というのは嘘ではないし、彼の容姿は西の国の出身者としてまったく違和感はない。
「ほう、エルベテールねぇ……」
疑っているわけではないのかも知れない。しばらくじろじろとカミューの容姿を観察してから、主人は厨房の奥に引っ込んだ。間もなく、熱くしたホワイトシチューの深皿とパンの塊、それに公都近くで産する鉱泉水を満たした瓶を持ってきてくれた。意外に人はいいのかもしれない。
「ありがとう。夜分遅くにすまない」
「いや、どうせ人を待ってたから問題はねえんだが……食い終わったらとっとと出て行ってくれるか? その連中に伝言を渡したら、もうすぐにでも店を閉めたいんだ」
「もちろんだよ」
微笑んで、カミューは鶏肉いりのホワイトシチューとパンを口に運ぶ。期待に反して味は上々で、カミューは上機嫌で遅い夕食に取りかかった。
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