騎士物語3

商都オルミア-1

吹き抜ける風は微かな潮の匂いとともに初春の香りを伴っていた。林立する帆柱に掲げられた無数の旗が翻り、目にも鮮やかに色とりどりに吹きなびく。人目にはそれと見て取れぬほどにゆったりと流れる大河の川岸を掘り砕いた船だまりの岸壁は堅牢な石積みで固められ、岸壁から伸びた桟橋の上を、肩に荷を抱え、あるいは荷車や手押し車に荷物を積み上げて、おおぜいの男たちがひっきりなしに往来する。彼らの発するかけ声、互いに呼び合う叫び、時に怒号が入り交じり、周囲一帯を雑踏のような喧噪で包んでいた。
一人の男が桟橋に続く斜路を駆け上がってくると直立不動の姿勢を取る。敬礼に、報告の声が続き、辺りの騒ぎを貫いて響いた。
「アレクシィ様、荷の点検終わりました。員数に過不足はございません。ご指示あり次第いつでも出立できます」
礼を受けた男は、胸元の徽章を小さく煌めかせ、重々しく頷いた。白を基調とした騎士服は、彼がルーヴェル公国の白騎士団所属の騎士であることを示している。歳の頃は三十歳後半、濃い茶色の髪に鳶色の瞳の、なかなかに整った目鼻立ちは出自の良さを物語っていた。
「よかろう、出立して宜しい」
ずば抜けた長身というわけではないが、騎士として鍛えられたことの窺える体躯の持ち主だった。使われた生地、施された装飾は一般の騎士には望み得べくもないほどに高価であり、仕立てにもまた贅を凝らしたものである。戦場で泥濘と血しぶきの中、愛馬を駆って剣と槍を振るう、そんな生活とはおよそ縁のない人間であることは確かだった。
指示を受けて、さきほど斜路を駆け上がってきた男は大きく腕を振る。応じて高いかけ声と笛の音が響き渡る。桟橋についていた何艘もの舟が一斉に帆を上げた。南からの風が帆を一杯に膨らませると、舟は次々に桟橋を離れ、船だまりに停泊した他の舟の間をすり抜けて、南の大河と通称されるグランデ河のただ中に乗り入れていく。舳先を北、すなわち上流に向け、南からの強い風の助けを受けてゆったりとした流れの中を、川上へと遡り始めた。
オルミア北街区に築かれたオルミア河港を発した船団は、グランデ河沿いに北進し、幾つかの運河を経てルーヴェル湖畔の公都アイタバッシュへと向かう。ここはオルミアとルーヴェルとをつなぐ船団のためだけに築かれた港だが、両国間の交易の盛んさを示して、船だまりに出入りする舟の数は、南の海港トゥーダにも決して劣るものではない。
遠ざかっていく帆の群れをしばらく見送ってから、アレクシィと呼ばれた男は、周囲の男たち……彼らもまたルーヴェル騎士の制服を纏い、白騎士の徽章を煌めかせている……に顎をしゃくった。
「行くぞ。アイタバッシュには伝騎を出しておけ。例の荷を発送した。到着は予定通り、とな」
「承知いたしました。直ちにご命令を伝えます」
目配せを受け、素早く敬礼した一人が駆け出すのを、アレクシィは満足気に見送り、それから北の空に視線を走らせた。
「これまでのアレクシィ様のお働きは大きなご功績です」
声をかけた白騎士の口調は、僅かな阿りの響きを帯びていた。
「騎士団があなたの功績を公平に評価すれば、当然に来年にはアイタバッシュへの召還とご栄転が待っておりましょう」
「……う、うむ、そうだな」
ちょっと口ごもり、アレクシィはもう一度、北の空に目をやった。ルーヴェル公国公都アイタバッシュははるか北、彼ら騎士が馬を駆って丸四日の旅程の彼方にある。公都の天然の外壁であり、公都防衛の防禦ラインとなる古いカルデラの名残……ルーヴェル・カルデラの山並みは地平線の下に沈み、この地から望むことはできない。

オルミアは、南の大河が大洋に流れ込む河口に位置し、ルーヴェル公国近隣では最大の商都と謳われる港湾都市である。近隣諸国のみならず、遠く南方諸国や西方沿岸の国々、さらには北の大国たるモンターニュ皇国にまでも交易の手を伸ばす自由交易国家であった。
北に、宿敵ともいうべきモンターニュ皇国を控えるルーヴェル公国にとって、オルミアは二重の意味で重要な存在だった。一つには、モンターニュとの戦いに対する後方の補給地としてであり、特に南方諸国で産する鋼と、その鋼からオルミア近郊で鍛えられる武器類はルーヴェルにとって最も重要な輸入品だった。
今ひとつ、ルーヴェルがオルミアを重視するのは外交の拠点として、だった。ルーヴェルにとって最大の敵国は北のモンターニュ皇国であり、西には必ずしも友好な関係とは言えないカルモニア神聖国が控える。これら二国はルーヴェル公国民の自国への入国を禁止している。これはルーヴェルも同様で、外交官の交換などあり得ない。
しかし、オルミアはルーヴェル公国と攻守同盟を結んではいるものの、いずれの国にも門戸を開く自由交易国家である。関係諸国はオルミアに領事館を置き、外交官や武官、貿易を担務する高等文官を常駐させている。
その門戸は、当然のようにモンターニュにもカルモニアにも開かれている。敢えて隣接とは言わないが、ルーヴェル公国の領事館から数ブロック離れたオルミア中心街の一画には、これら二国の領事館も居を構えているのである。
「公都ご帰還のおりには、私もぜひ、お供にお加え下さい」
なおも阿ねるような部下の言葉に、しかしアレクシィは半ば上の空で聞き流した。
「公都か……」
公都には彼奴<あやつ>がいる……口の中の呟きは、表情とは相反して憎悪と悪意が滴らんばかりに苦かった。

*

アレクシィの思いは三年ばかりを遡る。
「オルミアの先任武官の職が空いた」
突然の[白の間]への呼び出しに驚いている暇もないままに、白騎士団長から転任の命令を言い渡された。忘れもしない、あの僻国の子供が、この年の士官学校卒業後にはこともあろうに正騎士へ叙任されるとの噂が耳に入った直後のこと。
「オルミア……ですって?」
なぜ、自分がそんな所へ赴かねばならないのか……激昂しかかったアレクシィに、白騎士団長は訝しげな視線を向けた。
「オルミア領事館の先任武官は、騎士団屈指の顕職だ。過去の白騎士団長の多くが、この職を経て、騎士団の幹部に加わっていることをお前が知らないはずはない」
「存じております。しかし……」
「オルミア駐在の先任武官は顕職だが、同時に難職でもある。無事に勤め上げられるのは三人に一人とさえ言われている。早い話が、前任者も涜職<とくしょく>の故をもって任を解かれたのだ。同じ轍を踏まぬがないという自信と覚悟がないなら、辞退しても宜しい。ただし、そうした場合、騎士団はお前をその程度の人物として扱うことになる」
「そ……それは……!」
卑怯ではないか……と言い止し、アレクシィは言葉を飲み込んだ。自分を誰だと思っているのだ。ルーヴェルの十選帝伯の長子、いずれ遠くない未来には選帝伯の一人に加わるべき、マーロゥ伯爵家の跡取りなのだ。それを、そのようなお為ごかしの取引めいた言い回しで言いくるめようとは!
「任期は基本的に四年だ。四年、無事に職を全うすれば、騎士団の調達を一手に握る軍務部への帰任は約束される。仮に軍務長となれなくても、間違いなくその次の候補者としてだ。これは私の口約束ではない。騎士団としての公的な約束になる」

「四……年でありますか」
呻き、ふとアレクシィはあることを思い出した。
「団長閣下、あの、赤騎士団のコーレル隊長は、この件を……」
赤騎士団筆頭隊長の職にあるコーレルなら、マーロゥ伯家の事情をよく知る彼なら、自分を公都から追い払うような、こんな不当な人事を許すはずはない。だが期待に反して白騎士団長は顎を軽く引いて、アレクシィの問いに肯定を示して見せたのだ。
「無論、騎士団の人事のことだ。各騎士団長と副長、それに筆頭部隊長は事前に内容を知らされ、異議の有無の確認を受けることになっている」
「そんな、コーレル様もこの人事に同意なさったとS」
「お前にとっては得がたい、良い経験となるだろう。お前の経歴にも立派な箔が付く、それも決して剥げ落ちることのない……。君を推挙したコーレル隊長はそう言っていたぞ」
「は?コーレルさま、が……?」
「おおそうだ。調達本部にいるアレクシィ殿は優秀だと。かつ清廉な人柄もあり、色々と問題の多いあの国の先任武官を任せるにはもってこいの人物だ、とな」

言葉の後半など耳に入らなかった。アレクシィにとって、それはコーレルによる絶縁の言葉に等しかった。コーレルなら必ず、アレクシィを公都外に出すのは、マーロゥ伯爵家の内紛につながりかねないと反対するはずだった。反対し、白騎士団長が受け入れなければ、赤騎士団への転任を申し入れてくれるに違いなかった。コーレルの思いがどうあれ、アレクシィにとって、それは許しがたい裏切りに違いなかったのだ。
だがことがこうなった以上、アレクシィに残された選択肢は二つだった。オルミアへの赴任を受け入れ、四年の職務を大過なく全うして公都へ凱旋するか。あるいは、ここで赴任を拒絶し、騎士団から『その程度の人間』として扱われる未来を甘受するか、である。
後者を選んでも良かったのだ――アレクシィは今でもそう思っている。後者を選んで、騎士団では閑職を宛がわれ続けることになったとしても、いずれ父マーロゥ伯も鬼籍に名を連ねる時が来る。彼アレクシィが選帝伯の名簿にその名を載せるときが必ず来るのだ。その時にこそ、選帝伯として父をたぶらかした継母と義弟カミュー、それに推挙という名目で自分を公都から追いやろうとしているコーレルとに、思い知らせてやることができる。
「拝命……いたします」
あのとき、なぜそんな選択をしてしまったのか、未だにアレクシィにも分からない。おそらくは、彼の騎士としての誇り、ルーヴェル騎士団の一員としての矜恃が〈その程度の人間〉という扱いを拒否した。そういうことなのかも知れない。もちろん、アレクシィは自分の心の動きのそんな分析を拒絶しているのだが。

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