騎士物語3

商都オルミア-2

ともかくも、あれから三年。
着任して、さすがにアレクシィも、騎士団長がこの職を〈難職〉と呼んだ理由を即座に理解した。誘惑の多さは話にならなかった。連日のように商人たちが訪ねてくる。最初、気軽に受け取った彼らの土産には金銀や貴石が詰め込まれ、夜会の招待を受ければ、驚くほどの美女が接待に侍る。挙げ句には寝所に案内されて、そこでは……という次第である。『私を馬鹿にしているのか。私はマーロゥ伯爵家が跡継ぎ。誇り高きルーヴェルの十選帝伯の後継者だぞ』
アレクシィの高すぎるほどの自意識が彼を救ったと言えるだろう。土産は突き返され、寝所にはべる美女は剣の鞘で突き飛ばされた。そうして二年も経るうちにオルミアの商人たちはアレクシィのガードの堅さに呆れ、ついには無用の収賄や誘惑の試みを断念するようになっていた。
「近年、まれに見るほどに有能なる武官」
「アレクシィ先任武官の清廉さには目を洗われる思いがする」
等々、領事館と騎士団本部での彼の評価は日々高くなったが、アレクシィの内心を荒れ狂う思いは三年前と何も変わってもいなかった。

一昨年のユールに帰国した時出会った義母の連れ子、エルベテールのような文明とは縁のない僻国の出身だったカミュー、当時まだ任官して一年にもならなかったくせに、もういっぱしの士官候補生のように城に馴染んでいた。
ユールの宴に招いたものの、不快なその名を家令に伝えるのは 〈ついうっかり〉失念したことも、あれが門衛に断られとぼとぼと戻っていったこともあとで聞かされたが、それはアレクシィにとって記憶に値するものでもなく、いつしか頭の片隅に追いやられていた。しかし、翌年夏のモンターニュとの戦いで初陣を飾ったあれが恐ろしいほどの勘を働かせ、危地あった多くの騎士を救ったこと、領内に巣くう盗賊の排除で功を上げて、ついには史上最年少での、赤騎士団騎士隊長にまでのし上がったことは、アレクシィにすれば、許されざる暴挙である。
選帝伯爵家の正当なる跡取りの自分が、こうして公都を離れたオルミアで、日々武器や防具の調達に神経を使っているというのに。騎士団上層部は一体なにを考えておられるのか。カミューの騎士叙任については士官学校入学時と同じく後見人を引き受けたというコーレル殿の差し金なのか――。着任してすぐの 〈継母〉の死の報も彼の許に達していたが、父を、兄とも慕うコーレルを彼から奪ったという疑心は晴れることがなかったのだ。まして正騎士として叙任された義弟カミューが、一足飛びの昇進を遂げて、遂に赤騎士団隊長の一員に加わったなどという知らせほど、アレクシィを苛立たせ、時の経つ遅さへの呪詛を吐き散らさせたものはなかったのだ。

それゆえに、オルミア河港から部下と共に騎乗して、旧街区北の自宅へ戻る道すがら、時折話しかけてくる部下に対しても、アレクシィはむっつりと口をつぐんだまま、言葉を返そうともしなかった。日々苛立ちと焦燥は募るばかりではあったが、アレクシィはそれでも呪詛を咽喉の奥に押し込めるだけの分別を残していた。

+++

「アレクシィ様、今宵はお約束がございます」
乱暴にアレクシィが投げて寄越した騎乗用の外套を腕に懸け、執事は恭しく頭を下げた。
「約束……今宵だと?」
「パオロ様からのご招待が、今夜九の刻からとなっております。お湯浴みの支度ができておりますので、お召し替えのご準備をなさって下さいませ」
「パオロ……」
誰だ、それは……言い止してアレクシィは頷いた。
「ああ、あの男か」
ルーヴェルにとって最大にして最重要の輸入品は武器……特に刀剣と甲冑である。アレクシィの着任以前から納入の商人は決まっており、やや高価なのか難点ではあっても品質的な問題がこれまで出たことはない。公国も完成品の刀剣ではなく鋼を輸入して国内で鍛えるか、できれば鋼自体を国内で生産したいのはやまやまではあるが、今のところ、輸入品を越えるだけの品質を備えた刀剣・甲冑の国内生産に至れていない。鍛造の技術は十分なのだが、鋼の品質と、なにより生産量が今ひとつなのだ。
防具類は皮や鋼を扱う国内の技術者の手で十分な数が供給されていたし、一般の兵士たちがもつ剣や弓も、ある程度までは国内での調達が可能であった。別の言葉を用いるなら、公会議直属で多くの予算を持つルーヴェル騎士団が必要とする品々を発注することが、領民たちの農閑期の主な収入源になっていたともいえる。
ただ、それはあくまでも一般兵卒のための品であり、馬を駆り戦場に出る騎士にとっては与えられる武具の良否は、自分たちの生死に関わる重大事であった。
騎士団でもできるだけ多くの刀鍛冶を領内に招き、より良いものを作らせるよう心を砕いてはいたが、その数はあまりにも少ない。この時代、質の良い鋼は貴重品でもあったし、産出する国々は決して多くない。オルミアの鍛造所で生産される武器の数も無限ではなく、それを扱える商人の数も限られている。
そこで、何十年か前から隣接する商都オルミアに領事館を置き、必要な刀剣の類や新しい武器を調査させ、時に契約を結んで大がかりな購買を行っていたのである。

パオロは、ルーヴェルへの刀剣納入業者のリストに加えられることを望み、ここしばらくずっとアレクシィへの訪問を続けてきている。最初はけんもほろろに撥ねつけていたアレクシィだが、半年もそれが続いた為にさすがに根負けし、正餐の招待を受け、話だけでも聞いてみる……そういう話になったのが十日ほど前。招待状が届いたのは五日前だった。
招待を受ける気になった理由の一つが、騎士団からの指示だった。
『モンターニュ皇国軍が動員の準備を始めているとの情報がある』
北の大国にして、険峻なシェルビー山脈を隔てて国境を接する皇国モンターニュは、ルーヴェル公国にとって最大で最強の敵国だった。アレクシィ自身、叙任して以来、両国間で何度の戦いが戦われたか、直ぐには思い出せぬほどだ。
ここ一年余り、モンターニュの宮廷では穏健派が力を得ているとの情報もあり、今しばらくの平穏が続くものとの予想が領事館でも一般的だった。
「今後、モンターニュとの国境での小競り合いが続き、場合により数個部隊規模の会戦が起きることも予想される。先任武官においては武器調達量の積み増しに意を注がれたし」
白騎士団長からの指示に、『簡単に言ってくれる……』と舌打ちしたものの、彼は駐在武官としての任務に対しては忠実で有能だった。
そうした矢先に、パオロの、もう何度目になるやも知れぬ訪問があり、従来のそれよりもやや安く、より多くの量の武器を調達できるという話に心が動いたのだ。

「そうか、今日だったか」
心地よく整えられた湯の温みと、投じられた香料の香りを満喫しつつ、アレクシィはパオロの顔を思い浮かべた。商人らしい如才ない態度の、温和な感じの容貌だが、目つきだけは鷹のように鋭いのが不釣り合いな印象を与える四十がらみの男だった。
くだらぬ提案をしたら席を蹴って帰るが、それでも良いか……パオロも、オルミアでは知られた商人らしいが、アレクシィには怖れる必要は何もなかった。もっときつい言葉を浴びせてやれば良かったか、いや、あれはあれで十分効いていたはずだ、アレクシィは、彼の啖呵に、一瞬眉根を寄せて黙り込んでしまったオルミア商人の顔を思い出して、昏い愉悦に頬を歪めた。
「まもなくお時間でございます」
アレクシィの耳に執事の声が届いた。
「うむ、もうか……」
応じてアレクシィは目を見開き、立ち上がった。
浴室を出てローブを羽織った彼を、一部の隙もなく準備された着替えの支度が出迎えた。
パオロによる饗応はさして珍しいものでもなかった。オルミア最大の海港を見晴るかす高台、この商都でも指折りの高級料理店での贅を尽くした晩餐と、世界各国から集められた銘酒の数々。今宵一夜の費えは、標準的なオルミア住民の一月<ひとつき>の稼ぎにも相当するだろう。
世界中を網羅したと豪語される佳肴・珍味の類いも、しかし、アレクシィにとっては特に心を動かされるものではなかった。オルミア在住も既に三年目。既に大抵の料理は見尽くしている。
「貴殿の申し出は分かった」
薄紅色の透き通った液体の中に細かな泡の立ち上る、高価な発泡ワインによる乾杯、料理の最初の一品と、それに添えられた年代物のワイン一杯。通常、アレクシィが饗応でつきあうのはそこまでである。
アレクシィは退屈の色を隠そうともせず、主人たるパオロに向かって言い放った。
「分かったが、武器は騎士の生命だ。貴殿から武器を買い受けるか否かは、私に対する饗応の回数ではなく、貴殿の提供する武器の質で決まる」
「それは……無論のことでございますとも」
パオロは、あからさまにそれと分かる作り笑いを浮かべ、揉み手をしつつ、まだ半ばも空いていないアレクシィのグラスに酒を満たすよう、給仕に命じた。肌の浅黒い、目と歯の白さの目立つ少年の給仕がワインのボトルを傾けるのに、アレクシィはさっとグラスに手をかざして謝絶の意を示した。
普通なら白服の少年の給仕ではなくて複数の美女が酒瓶を捧げて現れるところだが……アレクシィがパオロに好感を持つとすれば、その点だけだった。
「酒はいい。それより、見せてもらえるか?」
ぐいと右手を差し出すアレクシィにパオロは微笑を消した。
――さて、どうする。
内心にアレクシィは薄く嘲笑った。ここで金貨の袋なり、宝石なりを彼の掌に載せた瞬間が、この宴の終わりの時だ。席を蹴り、待たせてある馬車に飛び乗って自邸へ戻るだけのこと。いかに高価であっても、こんな席で飲む酒が美味いはずはない。
「はい、アレクシィ様がそう仰るのではないかと思うておりました……これ!」
商人がぱちんと指を鳴らし、控えていた給仕たちがさっと退いて道を空ける。松明とランプの織りなす光と薄闇を押し分けるように、真珠色に煌めく影が現れるのを、アレクシィは一瞬呆気に取られて見つめ、それから眉を険しくしてパオロをにらみつけた。
「パオロ殿、貴殿もやはりそういう手合いだったか」
「……と仰ると」
「彼女だ」
橙色に揺らめく明かりの中、女性のほっそりとしたシルエットを描き出している真珠色の影に向かってアレクシィは声を荒らげた。
「貴殿は色仕掛けなどせぬ男だと思っていた。失望したぞ」
「これは……これはしたり……失礼を致しました……レニ、何をしている。アレクシィ様に剣をお見せせよ」
「はい」
涼やかな声。衣擦れの音と微かな足音とともに進み出て、彼に一振りの剣を差し出した女性の顔に、アレクシィは一瞬息を呑んだ。顔立ちは整っているが、決して華やかな美女ではない。育ちの良さのうかがわれる面差しは、どこか表情の翳りが深く、それがアレクシィの目を吸い寄せて放さなかった。
「ふん……これはまた衒<てら>ったことを」
鼻を鳴らして、無理に視線を外し、アレクシィは剣を受け取る。
「下がっていろ。近くにいると危ない」
鞘から刀身を抜き払う。慣れた手つきで刀身を改め、切っ先に指を滑らせる。給仕たちにも下がるようにと命じ、立ち上がるなり刀を構え二度、三度と振りおろす。テーブルの上から肉刺<フォーク>をとり、剣の背を軽く叩いて音を確かめる……。
やがて、アレクシィは刀身を鞘に収め、レニと呼ばれた女性の手にそれを返した。
「残念だが、これはだめだ、パオロ殿」
パオロは小さく唸った。
「……だめと仰いますか?」
「ああ、だめだ。今、騎士団が買い求めている品よりも一段も二段も劣る。切れ味も重さも、鋼の質も、だ。残念だが、今宵はここまでとさせてもらおう。これ以上、貴殿からの饗応をうける謂われも、これでなくなった……うん、どうした?」
アレクシィの最後の言葉は、剣を捧げ持ったままのレニに向けられたものだった。決して明るくない照明の中、彼女の肩が激しく震えているのが見えた。押し殺しているのだろうが、嗚咽の声も確かにアレクシィの耳朶を打った。
「これは……何の真似だ、パオロ殿。色仕掛けではなく、泣き落としをでもしようというのか?」
「ある意味で、さようでございました」
失望の色もあらわにパオロは頷く。
「レニは……本名はレオノール・メディナと申します。私の旧友の娘でございまして……つい先日まで、このオルミア南街区で働く身の上でございました」
それだけで分かるだろうという口調に、アレクシィも頷く。この料理店からも見下ろすことのできる、オルミアの不夜城。商人と船乗り、そして旅人たちが夜を徹して享楽に耽る、オルミア最大の歓楽街の姿がそこにある。その街で、レニのような若く、容姿に優れた女が働く……その意味は明らかすぎた。
「長々と申し上げても致し方ありません。数年前まで、レニの実家……メディナ家はオルミアでも有数の大商人でございました。私も、この商売を広げますに大いにその後援を受けたものでございます」
小さなつまずきと、競争相手のしかけた悪辣な裏切り、そして交易船の遭難。いくつもの不運が重なり合って、レニの実家は莫大な借財を抱えて倒産。一家は離散し、レニ自身もその借財の一部を背負う形で歓楽街に身を沈めることになった。
「私も長く国外に出ておりまして、昨年、ようやくオルミアへ戻ってみればこの有様。レニの借財だけはなんとか肩代わりいたしましたが、私もまだまだ豪商とも大商人とも言えぬほどの身代でございまして……何とか、レニの実家を再興させるには、騎士団様との大きな商いしかないと……」
「……そうか。それは気の毒なことだったな」
常にねじくれ曲がった感情のはじき出す言葉しか紡ぎ出せない口から、この時は奇妙なほどに素直な慰めの言葉が出るのに、アレクシィは自分ながら驚いた。
「レニというのか。ご実家には気の毒なことだった」
「い、いいえ、騎士様、もったいないお言葉を……」
一時期、歓楽街で働いていた……とは信じられないほど、アレクシィを振り仰いだレニの顔には化粧気もなく、アレクシィの見慣れてきたこの町の美女たちからはほど遠いほど繊細で頼りなげに見えた。
「私にも公の立場がある。いかに貴女のご実家が気の毒な有様であり、パオロ殿が誠心に尽力されておろうとも、それがゆえにパオロ殿との取引を認めることはできないのだ。分かって頂けような?」
「もちろんでございます、騎士様。いえ、もし、騎士様が……私の身の上の故に取引をお認めになっておりましたなら……」
「認めていたら?」
「軽蔑いたしました」
細いが、きっぱりとした声音が、アレクシィの胸に奇妙なほどに心地よい清涼さを感じさせた。思わず微笑を浮かべ、問い返す。
「今はどうなのだ?」
レニは立ち上がり、数歩を下がって居住まいを正した。深々と頭を下げ、細いがはっきりした声で応じる。
「尊敬いたします、心より。騎士様のような方にお目にかかれて望外の幸せでございました」
「……わ、私を尊敬する……だと?」
驚きに打たれる思いで、アレクシィはレニを見直した。歓楽街での労苦からか、頬には窶れの影が濃いが、かつて裕福な商人の娘だったという育ちの良さの名残もまだ消え失せてはいない。
「阿る気か?」
「私をお辱めになるのですか、騎士様、いえ、アレクシィ様。卑しき暮らしに身を沈めた、この身ゆえに、私の言葉など信用に値しないと?」
きっぱりと言い切り、真っ直ぐに彼を見つめてくる視線には紛れもない賞賛と敬意が含まれていて、それがアレクシィをいつになく狼狽えさせた。これまで、彼の出会ったことのある女性は、高慢なルーヴェル貴族や高位騎士たちの子女か、さもなければあわよくば彼を色で誑し込もうとするオルミア歓楽街の美女たちばかりだった。レニは、彼女たちの誰とも違っていた。
「……あ、いや、確かにレニ殿の実家の事情は察するに余りあるが、それと騎士団との取引は別だ。この話はなかったことにして頂く。よろしいな、パオロ殿」
「はい」
大きくうなだれて失意も露わにパオロは頷き、レニももう一度深く頭を下げてアレクシィの言葉を受け入れる意思を示した。
「だが……」
アレクシィの言葉が二人の驚きを誘った。
「今宵の晩餐には最後までつきあわせて頂こう。無論、饗応を受けるわけにはいかんからな。私の分の払いは持たせてもらうぞ」
持ち込まれる取引の話が不調に終わった場合、それ以上の饗応を断るのが常の彼にして、初めてのことだった。
レニは一旦、剣と共に下がったが、アレクシィの求めに応じて間もなく席に戻ってきた。
「わたくしの話など、お耳の汚れでございます」
そう言って過去の労苦については語ろうとしなかったレニだが、他者の話は喜んで聞いた。受け答えも巧みで教養に富み、酒の酌こそしなかったが、オルミア周辺の歌謡や楽曲も披露してアレクシィを大いに興じさせた。
なによりアレクシィにとって意外で、喜ばしかったのは彼の語るルーヴェルの話を彼女が目を輝かせて聞き入ってくれたことだった。話の端々に、あのカミューとその母への非難や、騎士団の人事への不満が混じったが、レニはそうした話も嫌がらずに聞き、時にアレクシィにとって耳の痛い一言、二言を返すのを躊躇わなかった。普通なら、そうした片言隻句でも自分への攻撃と受け取って激昂するアレクシィだったが、なぜかレニに言われると非難ではなく、自分への敬意として受け取れてしまうのだ。
深更、彼を見送りに馬車の端に立ったレニの手を、我にもなくアレクシィは両手に掴みしめた。
「……あの、アレクシィ様?」
「取引には至れなかったが、貴女とパオロ殿にはまたお目にかかりたい。いや、貴女にだ、レニ殿。迷惑だろうか?」
「はい……あの……」
把られた手をそのままに、戸惑いを露わにしつつ、レニは大きく目を瞠ってうなずいた。
「……わたくしのような女でも宜しうございますなら、喜んでお側に参りたく存じます、アレクシィ様」
アレクシィがパオロの許可を得てレニの身柄を引き取り、愛人として自邸近くに住まわせるようになったのは、それから十日もしないうちのできごとだった。

本来、武官と言わず、オルミアに駐在する領事館所属のルーヴェル公民は、他国籍の人間と婚姻関係を持つ場合、騎士団法務部隊に届け出て、相手の血縁・地縁の関係を徹して確認させねばならない。レニの場合もそうだったのだが、アレクシィは敢えてその手続きを省いた。
レニの実家の悲劇とその娘レニの悲運について、オルミアでは知る人ぞ知るであった。それでも一応は自分なりの綿密な調査もし、その結果に疑いを持つべきものは何もなかったのも事実だった。
「功徳を施されましたな」
などと話しかけてくる文官も現れるほどだった。以前なら『馬鹿にするかS』と怒鳴りつけたアレクシィだったが、今では微笑って聞き流せるようになっていた。

+++

かねてからの噂通り、モンターニュ皇国軍が本格的な動員の準備を始めたのは、シェルビー山塊の根雪が消え始めたころだった。ルーヴェル騎士団もまた、モンターニュの諜報活動に対抗する特務部隊の新設、国境に向かう街道と街道沿いの砦への武器補充、さらに大規模な騎士団部隊動員の為の準備を開始した。
オルミアの領事館に対する武器調達量積み増しの命令はさらに緊急度を増した。
アレクシィはオルミアの商人たちと面談して新たな調達の交渉を行い、既に取引のある相手には扱い量の積み増しを求めて連日のように奔走した。おかげで、せっかく用意した別宅を訪れる機会も少なくなり、また、その機会を得られても逢瀬の時間は短かかったが、レニが苦情をいうことはなかった。
「待っていろ、今回の仕事が上手くいけばアイタバッシュへ帰れる。その時は、お前を妻として迎える旨、父上にも申し上げる」
アレクシィのそんな言葉にも、レニは目を伏せて俯くのが常だった。
「嬉<うれ>しうございます。ですが、アレクシィ様の正室など、私には身に余ることです。私のような過去を持つ女が伯爵夫人などとなっては、伯爵家の名誉に泥を塗ることになりましょう。愛人の身でも十分すぎるほどの幸せにございます」
「馬鹿を言うな。好んで身を苦界に沈めたわけでもあるまい。元はと言えば、知られた豪商の跡取り娘ではないか。選帝伯家とは言え、その配偶者には一般の公民や下級の騎士の娘など珍しくもない。身を恥じることなど何もないぞ」
レニが彼に示す信頼と尊敬は余人が見ても真正のもので、疑う余地はなかった。生まれて初めて、アレクシィは無条件に信頼できる女性を得た、と信じたのである。彼女のためにも一刻も早く新たな調達先を見つけ、騎士団にその功績を認めさせずにはおかない。
「今に見ていろ、カミュー。私は今回の取引を必ず固めてみせる。そして、ルーヴェルへ帰る」
歯ぎしりと共にアレクシィは吐き捨てたのである。

+++

その話はパオロが持ち込んだ。
レニの実家を没落させた、当時の競争相手を調べさせた時である。この商人は東方から買い入れた鋼で鍛造した刀剣や甲冑を、どうやらカルモニアに売りさばいているらしいというのである。
「カルモニア……だと?」
話を聞いたとき、アレクシィは顔をしかめた。モンターニュ皇国ほどではないが、カルモニア神聖国はルーヴェルにとっての非友好国の一つである。おいそれと話に乗ってくるとは思えないが、カルモニア軽騎兵はルーヴェル騎士団よりも軽快さで知られ、刀剣はより軽く、しかも鋭利さを誇る。
「待てよ……」
アレクシィは思いついた。やはり、レニの実家の倒産について調べていた時、競争相手の取った、阿漕極まりない手段についての報告も届けられていた。今更、それを言い立ててもレニの実家が家産を取り戻すことはできないが、表沙汰になれば、オルミアで商いを続ける上で大いに障碍となるはずである。
誇り高いルーヴェルの騎士として、脅迫・強要まがいの手段を採ることに躊躇<ためら>いはあったが、この時はアイタバッシュへの凱旋の夢、あのやたらと上層部の受けだけはよい義弟の鼻を明かしてやるとの思い……、それらが躊躇いを押し切った。
義弟――なんとおぞましい呼び名であることか。あの小癪で生意気で、美貌のゆえに本来あるべき以上に周囲から贔屓された挙げ句、身分不相応な地位を誇っているあの若造が――!

「それは……危険すぎます、アレクシィ様」
彼の言葉に滅多に首を振らないレニが真っ青になったのは、アレクシィが件<くだん>の商人を半ば脅迫によって商談のテーブルに着かせた、と話し聞かせた時だった。
「アレクシィ様はあの連中の汚さをご存じありません! 脅されて、ただ、黙っているような者たちではありませんわ。まかり間違えば、アレクシィ様の御身に危険が及ぶかも知れません。どうか、おやめ下さい」
「案じるな、レニ」
臥所の中、アレクシィはレニを抱きしめ、笑った。
「まずは相手をさせる為に使っただけだ。あとは公明正大な取引を申し出てやる。より適正な価格と数量、それに納期を示してやったのだ。奴らが金で転ぶことはお前も知っているだろう?」
「……」
「まあ、見ていろ。必ず、お前と共にアイタバッシュへ帰ってみせる。お前のためにも、迂滑な真似はせぬよ……ただ、お前にとっての仇を儲けさせねばならない。許せよ。これは騎士団のためだけではない、私とお前の将来の為でもある」
「いいえ、とんでもありません……それが、アレクシィ様の御ためになることであれば、私のことなど気におかけになる必要などありません」
レニは微かに目を背け、それきり沈黙に陥る。アレクシィは、それを了解の意思を示すものと受け取った。

レニの危惧にも関わらず、そしてアレクシィ自身も僅かに頂いていた不安をよそに、相手の商人は、たしかに不承不承ではあったが、彼の申し入れを受け入れた。アレクシィの示した価格よりも若干の上のせを要求しては来たが、数量についてはルーヴェル側の希望通り、納期についても僅かに伸びる程度での契約締結を提案してきたのだ。
「契約の前に、品物の確認が必要だ」
アレクシィは主張する。騎士団では、採用する武器の品質には厳密な検査規定を設けている。かつてアレクシィがパオロが提供した武器について行ったような簡易なものに始まり、わら束から鉄棒、さらには甲冑を剪<き>り、切れ味と耐久性を確認する試験だった。
果たして相手先は難色を示した。契約の前に検査用の商品を提供しては鍛造の秘密を知られてしまう。もともとぎりぎりの数なので、検査品を出してしまうと契約通りの数を出せない、我々は世界の各国と取引をしているが、このような試験を要求するのは他に例がない……等々。
「ならば、この話はなかったことにしよう」
普通なら席を蹴るところだが、アレクシィにはその選択肢はなかった。あくまで強硬に騎士団の主張を押し通しつつ、何とか手を打てる妥協点を探る……アレクシィ自身、意識していなかったが、その手腕は確かに一流の外交官、または優れた商人のそれに間違いなかった。
妥協が成立したのは交渉を始めてまるまる二ヵ月ほども経過してのこと。商人側は検査のための商品を提供するが、騎士団の要求する三十組ではなく二組だけ。試験のための期間は、本来十日を要するところを二日で済ませる。他の条件は騎士団側の要求に従うというものだった。
「……宜しい」
僅かにためらってから、アレクシィは相手に承諾を与えた。試技の省略・短縮は白騎士団長の承認が必要だったが、ことは緊急を要するのだ。既に来月か再来月にはモンターニュ皇国軍が国境を越えるかも知れない。正式の試技なら、後づけで行えば良い。今は、必要な数を一刻も早く揃えることだ。
検査用の武器が領事館に運び込まれ、二日にわたって駐在の騎士たちによる検査が行われたのは、さらに十日後のことである。結果は、僅かに耐久性に問題はあるものの、十分に満足できるものであり、アレクシィに安堵の息をつかせるに十分だった。

+++

ルーヴェル公国の国防を支える騎士団に、新しく多くの武器が納品されることが上層部の会議で裁可された。
白、赤、青の三騎士団の団長、副長それに筆頭部隊長からなる枢密会議に、武器や防具の検証記録、価格交渉の段取りなどが担当部署から持ち込まれ、様々な方面の意見をもいれて検討された結果だった。
さらに――新たな取引契約に基づいた大量の刀剣、甲冑、弓箭等が運び込まれ、アイタバッシュへの船団がオルミア河港を発したのは、その一ヶ月のことだった。
そして、アイタバッシュで荷を下ろし、公国内の産物を満載した船団は、アレクシィが待ちに待った知らせをもたらした。
「短期間によくもこれだけの物量の、それも優れた質の武器の調達先を見出した。見事である」
賞賛の言葉と共に、白騎士団長の署名入りの書簡がアレクシィの手許に達したのである。それを一読した彼は狂喜乱舞してレニに示して見せた。
「見ろ、レニ。ルーヴェル白騎士団軍務長に任じる。可能な限り早く、アイタバッシュへ戻るべし……とあるぞ」
騎士団軍務長は、各騎士団の補給を司る最高責任者、それも白騎士団軍務長ともなれば、三騎士団すべての補給一切の権限を与えられる。青騎士や赤騎士の隊長職をすら凌ぐ高位の地位である。併せて、今回の功績に鑑みて勲章を授けられる旨も、その書類には明記されていた。
「おめでとうございます……それで、いつ、アイタバッシュへお戻りになるのでしょうか?」
レニの、僅かに憂いを含んだ問いがアレクシィの興奮に水を差した。
「……なんだ、私が帰るのがいやなのか?」
「いえ、とんでもありません。ただ……」
「何を案じている。アイタバッシュへ戻るときは一緒だ。お前がここに留まると言っても、無理でも連れて帰る。皆にもきちんと披露する。私の妻になる女だとな」
「そんな……」
「なんだ、なにが心配なのだ?」
「恐ろしうございます。公都の方々は、私のような女を……」
「もはや、それを言うな!」
ビシリと決めつけ、アレクシィは愛人の口を塞いだ。
「まだ残務がある。完全にオルミアを引き払うには半年はかかるだろうが、来月には一度アイタバッシュへ戻る。あちらでの住まいも手配させよう。良いか、レニ、お前はパオロ殿の養女だ。お前の披露も兼ねて、宴も開くぞ。何も怖れることはない。滞りなく準備を整えるのだ。誰にも文句など言わせるものか」
レニは頷き、静かに頭を下げた。その頬に浮かんでいた、どこか得体の知れぬ、凍り付いたような笑みは彼女の髪の陰に隠れ、アレクシィの視界には入らなかった。

武器を載せた二度目の船団に便乗し、レニと、彼女の父親代わりとしてのパオロを伴ったアレクシィがアイタバッシュへ凱旋したのは、彼の言葉通りに、その一月後のことだった。
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