それは忙しい一日の執務を終え、レオニダスの私室で就寝まえの軽い一杯を酌み交わしたある夜のこと――。
「どうした?」
「ん?」
「なんだか顔色が悪い……」
そう問われてカミューは、ふぅと一つ深い息をつき、
「なんでもない」
と呟くような小さい声で言った。
儀仗を司る赤騎士団では、外貌の華やかさも必要になるため、団員の入れ替えも多い。年齢があがり、儀仗礼の技術もあがると徐々に重々しさが必要な上位の団へ異動することもあり、そうなると一番下の第五部隊には、新しく叙任された若い騎士たちが入ってくる。側近や文官以外の入れ替わりが激しく、若手が多い……だからこそ上層部も実力を認めた上でまだ十代のカミューにその扱いを任せている、といった面のあることは否めない。
このところ入れ替わりが多く、その儀仗訓練の足並みを合わせるのが大変で少し鬱屈が溜まっているらしいと聞いたレオニダスである。あんまり根を詰めるのはどうかと思いはすれど、一部隊を預かる騎士隊長ともなれば、責任も重い。
「無理はよくないぞ?」
「ちょっとね、基本の訓練だけならいいんだけど、事務処理系も前倒しでやっておかなきゃならないことが多くて……ごめんね、せっかく一緒にいるのに」
――とはこのところ、共に夜を過ごそうとしても、そばにいる安心感からかすぐに寝落ちをしてしまうことを反省しての一言のようだった。
「こんどの休みはいつだ?もし予定が合うなら、城を出てどこかに泊まりにでも行ってみようか」
「レオン?」
――たまには気分転換も必要だろう?そう告げた恋人(レオニダス)に、カミューは表情を一変させ、すてきな笑顔を向ける。
「ほんと?」
「あぁ。お前が望むなら」
「もしそうできたらきっとすてきだろうね」
とカミューは蜂蜜色の目をきらきらさせて呟いた。
「――私はルーヴェルが好きだよ。石造りで街全体がかっちりして、きちんとしてて……。騎士は当然かもしれないけど、街の人たちも丁寧で、礼儀正しくて。でも……」
「でも?」
「時々、エルベテールのなにもない風景が懐かしくなる」
「懐かしい、か……。たとえば?」
「そうだなぁ、ルーヴェルだと三階とか高い塔とかいろいろあって、見上げても空は四角くってなんだか切り取られた感じっていうのかな」
切り取られたという初めて耳にする言葉にレオニダスは不思議そうな表情になる。
「こう、なんていうか、ここでは空を見上げても、両側に石壁が続いているじゃないか。エルベテールにはそういうのはなにもない。村(クラン)の中の大きなものでも二階屋だし、ちょっと外にでたら、もう視界を遮るものはほとんどなくて……」
「ふぅん」
「早朝もいいけど、夜空もさ、ガス灯なんかないから星がそれこそ降ってくるみたいで本当にすてきなんだよ」
「ほぅ」
「もちろんここでだって遠乗りに出れば視界は広いけど、城に部屋をもらっている以上、夜中に空が見たいなんて理由で城門の外までは出られないしね」
そう言って、カミューはほんの少し故郷を懐かしむ表情になった。彼がエルベテールで過ごしたのはわずか十年にも満たない時間と聞いた。だがだからこそ、それは心に深く刻まれた記憶なのだろう。
「広くて、静かな場所か……。そういう所に行きたいのか?」
「え?いや、別に絶対ということじゃないけどね。もしそんな機会があったらいいだろうなって」
「わかった、善処する」
そんな会話が交わされたのが十日ほど前のこと――。
そして今日はレオニダスが悪友でもある中隊長ヴァレンタインから聞き出して、とある宿を予約した当日である。
明日の非番を確実なものにするために、カミューはそれこそ昼食も部屋で簡単に片付ける勢いで仕事に邁進し、どうにか定時には片をつけて部屋に戻り、外出の支度をして待ち合わせ場所である西棟一階の中庭へとやってきた。
「レオン!」
「あぁ、来たか」
「ごめん、遅刻……だよね?待った?」
「いや。そんなことはない。フローラでいいんだろう?お前がまだ来ないと思ったから先に厩舎ででかける準備させてある」
「ありがとう!」
どこへ行くのか、まだ行き先を聞いていなかったカミューは、馬で……ということは街の外?と言葉に出さずに、軽く首を傾げるような仕草だけで問いかけた。
「そんなに遠くじゃない。南門から出て半刻くらいかな」
「食事は?」
それも向こうに準備されている、と安心させたあと、『あまり遠いところだと、明日お前が辛いだろう?』と暗に夜の共寝のあとの事を耳元で囁かれ、その言葉にカミューが息をのむ。
「ちょ……なにそれ、あ、あのさ」
「まぁいいから。無理はさせない。ちゃんと下見にも行ったんだから、お前はなにも心配しないでいい」
騎乗してゆっくりとしたペースで街中を抜け、二人がたどり着いたのはルーヴェル湖畔の低い石垣に囲まれた敷地であった。入り口の警備を担当しているらしい初老の男に、レオニダスが名前を告げて場所の説明を聞き、鍵を受け取る。
「ここ、なに?」
「宿といえばそうだが、少し変わっていて全部が別棟の戸建てになっている。他人に干渉されずにゆっくりしたいなら最高だとヴァルのお墨付きだ」
「ま、またヴァレンタイン?」
「あぁ、そういう場所や食事に関しては俺より遙かに詳しいからな。えぇと、あぁ、ここだ」
木立の中の細い道をそのまま進み、ロッジのような建物の小さな表札に書かれた番号と、鍵に書かれたそれを照らし合わせたレオンが言う。馬で来ることを前提に、厩舎とまではいかなくても、愛馬たちが休める馬房がある部屋をと予約したので、馬を下り、入り口横にあるそこへと誘導した。カミューもまたレオニダスにならい、フローラから荷物を降ろし、鞍やはみをはずしてやって、たっぷりの飼い葉に水、それと寝藁が準備された隣の房に入れた。
建物は入ってきた門の周辺を除いて、常緑樹の林に囲まれていて、たしかにこれであれば他人の目は気にしないでゆっくり過ごせそうだった。
部屋に入ると大きな掃きだし窓に続くベランダが湖にむかってついていて、沈みゆく夕日がルーヴェル湖に一筋の線を描いて美しい。
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