騎士物語2

(2) 火災


それは、とある晩秋の夜――。
赤騎士団第五部隊はその日、城詰めの担当だった。公会議に近隣諸国の為政者たちが招かれ、新しい貿易協定が討議されることになり、警護と資料提供などのために、白騎士団から三つの部隊が会議が行われる会場へと駆り出されていたからである。

「カミュー隊長!」
「どうかしたかい?」
部隊を半分に分け、片方がいくつかのグループに分かれて歩哨と巡回、残りの半分が書類などの整理と休憩を交代で取るのが、カミューの定めたこの部隊の行動規定だ。内勤と休憩にあたる騎士たちははそれも勤務の一部であるから、隊長の執務室に隣接した広い待機室に集められている。
駆け込んできた伝令役の見習い騎士に、執務机で積み上げられた書類を捌いていたカミューが応じた。まだ十八才と若い彼らの部隊長は、過日帰宅途中に負った怪我から復帰したばかりであったが、すでにその遅れを取り戻して先々までの任務計画書の準備に取りかかっていた。

「城下、中州第三街区で火災発生!巡邏中の白騎士部隊が消火と救出にあたっていますが、人員不足により、救援要請が入りました」
「白騎士団から?――あぁ、そうか!」
公会議の仕事のために、員数不足となった城内及び城下の警邏には、残された赤青の二騎士団が予定を変更して、追加任務についているのだ。
「すぐに出られる者は?」
即座にペンや書類を置き、立ち上がった者、休憩中に興じていたチェス盤などを端に寄せて目の前に集合した部下たちの中から、カミューは補佐官のロレンツォ・リカルドの他四人を選び出動準備を命じた。
「私も行く、馬を正面入口へ回しておいてくれ」
「カミュー様S」
部隊長直々の出動宣言に、驚いた様子の騎士たちに、カミューはにこりと笑い言葉を続けた。
「けが人がいるかもしれしれないから、救命道具を持たせた医官を二名、事後処理他のために、十名を選んで追わせてくれ」
てきぱきと指示を飛ばしながら、カミューは事務仕事用の白手袋を外し、剣を取るためのなめし革の手袋をはめ、その上から乗馬用の厚皮の手袋を装着する。
「伝令、カミュー隊長、ロレンツォ補佐官、他四名分を至急装鞍の上、西棟正面へ!」
文官筆頭補佐のユリアスが伝声管の口を開いて、階下の詰め所へ指示をだす。音声をできるだけ明確に伝えるため、伝声管は上下左右に真っ直ぐ張り巡らされていた。一階の詰め所にいた張り番が、すぐにその内容を控え、別の管の口をあけて、厩舎番の詰め所へと連絡をいれる。
平時であれば五から十名いる厩舎の常夜番が、慌ただしく馬房へ走り、命じられた数の馬を引き出して鞍をかけた。役職者にはそれぞれ個人に与えられた馬がいるため、カミューみずからが出動するとなれば、まずカミューの、そしてその他は疲労度や体調をみながら順に求められるだけの馬を準備するのだ。

「ご苦労」
赤騎士が使う城の西棟正面に並べられた馬たちの中からカミューは、自分の愛馬の轡をとる厩務員に声をかけ、フローラという明るい鹿毛の牝馬の鼻づらを軽く撫でた。
「火災ということですが、遮視覆<ブリンカー>はいかがなさいますか?」
馬はもともと臆病な動物だ。特に火は野生で生活してきた長い記憶の中で、もっとも危険な事象として記憶されている。
「よい。城下での火災のようだし、それほど近くまでは行かないで降りるから」
「馬丁は何名ほどを?」
「私とラリー……」
カミューは補佐官ロレンツォ・リカルドを通称で呼んだ。
「それに四騎だから全部で六騎。二人いれば」
「畏まりました、どうぞお気をつけて」
「うん」
丁寧に頭をさげる担当の厩務員に、穏やかな笑顔をむけると、腹帯と鐙の固定状態を簡単に確かめて、カミューは愛馬の背に乗った。
「目的地は中州第三街区、到着後は現場指揮官の指示に従うように。私もそのつもりでいる。出動!」
相変わらずほれぼれとするような乗馬姿勢であった。背をすっと伸ばし、左手で軽く手綱を取って、大きく開かれた城門へと緩やかな下り坂を進む。左右に広がる練兵場と正面の閲兵式などを行う広場との間の通路へたどり着くと、そのまま軽く拍車をかけ、一息に速度をあげた。

「赤騎士団第五部隊長カミュー他五名、取り急ぎ……」
たどりついた火災現場はかなり混乱をしていた。火が出たのは石造りの大きな建物が並ぶ中産階級ともいうべき人々の住む地域であり、どうやら一階の路面店は食堂をやっており、そこが出火元と思われた。
「よく来てくれた。私はここの現場を束ねる、白騎士団第二部隊長マリエルだ」
いかにも白騎士となるにふさわしい、貴族の風格をもつ壮年の騎士である。きっちりと整えられた騎士服といい、まっすぐに伸ばされた姿勢といい、間違いなく上流階級に属することが見て取れる出で立ちだった。
現場着任の報告をするカミューを見て、その整った容貌と一部隊を預かるには余りにも年若く見えることに、一瞬訝しげな表情を浮かべはしたが、すぐに型式通りの答礼を返すと、状況の説明を続けた。
「火災は一階の厨房付近を焼いただけで、ほぼ収まりつつあるが、内部はまだかなり熱い。店内で食事をしていた怪我人が少しいるが、取りこぼしはいないはずだ」
「はい、事後処理の人数の他に医官を二名ほど追随するよう命じて参りましたので、じきに到着するかと思われます。重傷者がいないのはなにより……」
「うむ」

「騎士さまっ」
現況説明を受けて、次の手を相談しようとしていた彼らのもとへ、一人の男が駆け寄ってきた。
「騎士さまっ、娘が、娘と孫がおりません!」
近くにいた護衛兵にすがりつかんばかりに泣きついてきた。
「娘御とは?」
カミューが振り返って訊ねる。
「む、娘はこの夏に出産したばかりで、建物の二階に孫と一緒に休んでおりましたはずで……、これだけの騒ぎになりましたから、当然赤子をつれて出てきたと思っておりましたが……姿が見えないのです」
夏、となると赤ん坊はまだ三ヶ月、産んだ母親はもしかしたら授乳などで疲れ果て、騒ぎに気付かず寝入っていたのかもしれない。
「火は消し止められたとおっしゃいましたね?」
困惑した表情を浮かべる現場指揮官を見つめ、カミューが問う。
「あぁ。ただ、内部はまだくすぶっている。それに、階段は木製だ、登るのは……」
どうしたものかと腕組をして押し黙った白騎士隊長に、宿の主人は半泣きだった。
「ど、どうしたら……」
「ご主人、お嬢さんは歩けますか?建物の二階の部屋とはどちら側に?」

大通りに面した側の窓は暗く、人がいる気配はない。一階が食堂で二階が家族の住む部屋、そして三階には短期貸しの部屋と学生のための食事付きの寮部屋があるという。
石畳の横の砂地に主人がざっと書いた見取り図を見て、カミューは部屋の大体の配置を頭に入れた。見上げれば隣接する建物の窓とほぼ同じ高さにバルコニーが突きだしている。
「あそこからなら助け出せそうだな」
「カミュー様!」
「隣の建物の持ち主に、あそこを使う許可を取ってくれ」
「は!」
「女性と子供を受け取ってもらわなければならないから、力の強いものをそうだね、三人ほどバルコニー側の窓辺に待機させて」
「かしこまりました!で、突入はだれに?」
「私が行く」
「カミュー様?」
補佐官として部隊長の命令を騎士たちに伝える役を担うロレンツォことラリーが声をあげた。
「私は身軽だし、相手は二人だからね。探して連れ出すから、お前は部下たちを指揮してしっかりと受け取る準備をして欲しい」
「は、はぁ……」
ロレンツォ・リカルドは一瞬、口をつぐんで考え込んだ。
たしかに、いかつい騎士たちが救出に向かうよりは、穏やかな微笑みを浮かべる美貌の騎士隊長のほうが安心感はあるだろうが……。
「それにしても、お一人で?」
「一人のほうが作業が速いさ」
そういうと、カミューは傍らで難しい顔をしたまま押し黙っていたマリエルを振り返る。この現場における総指揮官の許可なしに、勝手な行動はできないのだから、まずは彼からの命令が必要だった。
「カミュー殿、貴官……本当にはいれるのか?だれか部隊のものをやったほうが……」
「いえ、火が消し止められているならば、あとは人数はかけないほうがよろしいかと。もし他に候補があれば別ですが……」
白騎士団は重装備の青騎士ほどではないにしろ、体格がよいものが多い。それに、戦闘時の剣技はともかく、日頃から法務などの書類仕事が多いので、身軽かと言われれば、その方面の能力には多少以上の疑問が残る。
一瞬迷いの色を見せてから、マリエルは頷いた。

「では……頼む」
「拝命いたします!」
そういうとカミューは騎士服の上着の留め金を緩め、革手袋の指をあわせてきっちりとはめなおすと、現場に集められていた救出用資材の中から、部下に長梯子を宿屋の室内に運ばせる。火は消し止められているとはいえ、部屋の中は燻され、熱気が籠もっていた。
「金物には触れないように。やけどをするといけないから」
「はい」
「私が登ったら梯子をもってすぐに外へ。無事を確認したら隣家との間のバルコニーを目指すから救出準備を頼む」
「了解しました!」
部屋の片側にあるどっしりとした木製の階段は、炎に焼かれて人が乗れば崩れる可能性が高かった。
「うん、あそこが良さそうだね」
一人呟くように言うと、カミューは二階の踊り場から石造りの室内に一番近そうなあたりを指さした。部下たちが梯子をたてかけ、数人でしっかりとそれを支える。
「あちら側の部屋だと言っていたな――」
頭の中にさきほど、主人の画いた図面をもう一度思い浮かべ、一つ大きく頷くと、カミューは身軽にそこを登っていった。

娘は予想通り、奥の部屋で子供に覆い被さるようにして意識を失っていた。窓を開け放ち、新鮮な空気を取り込んでまず、カミューは赤ん坊をそうっと腕に抱き、隣接する部屋のバルコニーへと運び出す。その場所に待機していた数人の部下に、手編みなのだろうきれいなブランケットに包まれた赤ん坊を手渡し、すぐに元の部屋へともどる。
ぼんやりと意識を取り戻しかけ、子供を探してあたりを見回す娘に、赤子は無事だよ、とやさしく微笑みかけてほっそりしたその体を両腕にだきあげ、ふたたびバルコニーへと移動した。
バルコニーの下で心配そうに見守っていた野次馬が、出てきた騎士と若い母親とを見て、わーっと歓声をあげた。街を守る騎士たちへの尊崇はもともと大きなものがあるルーヴェルの住人だが、現実にこうした活躍の場に立ち会う機会はそれほど多くはない。助け出された母子はすぐに近くにある別の宿屋へ運び込まれて医官の診察を受けたし、カミューはふたたび部下がたてかけた梯子を、身軽に踏んで地上に降り立った。
「ありがとうございますっ、騎士さまっ」
半泣きで礼を述べる宿屋の主を軽くいなし、カミューは任務終了をマリエルに報告した。思わぬ仕儀とはいえ、下手に目立つのは彼の本意とするところではなかったし、これ以上人々の注意を惹くのも好ましくない。事後処理の応援に駆けつけた自部隊の騎士へは、マリエルの指示を仰ぐように命じ、指揮官への挨拶を終えたカミューは後の始末をラリーに任せて、数名の部下とともにざわつく現場を後にした。

+++

数日後、今度は日勤として年末へ向けての予算処理にいそしんでいたカミューに、文官の一人が耳打ちをする。

「カミュー様、正面の衛兵から、面会希望の客人があると連絡が入っておりますが……」
「客人?私にかい?」
「はい、赤騎士団第五部隊長カミューさまに、と――」
「来客の予定はなかったと思うけれど」
訝しげな表情で、斜め横にきっちりとした姿勢で立つ従卒の少年に、補佐官のユリアスを呼ばせようとしたとき、当の本人が仕分けを終えた書類の束を抱えて執務室へと戻ってきた。
「どうか、なさいましたか?」
「あ、いや。今日誰か来客の予定を入れてあったかなと思って……」
「いえ、本日は決裁をお願いしたいものが多く、面会依頼はすべて断っておりますが。なにかございましたか?」
カミューの日程については、朝の報告会議から昼食、視察、閲兵に晩餐まですべてを一週間単位で記憶している有能な補佐官は、ふと不思議そうに首を傾げた。
「エマヌエルというらしいんだけど……、多分城下の公民だと思うんだ。正門脇で面会の要請を出したっていうからね」
「それは……先日の火災の出動の時の者ではございませんか?たしか燃えた宿屋の名がそのようなものだったと」
と言い、ユリアスはすぐに執務机に戻って、日誌のページをめくりだした。
「あぁ、ございました。中州第三街区の宿屋の、たぶん主人でございましょうね」
「そうか、そういえば……。なんだろう。あの現場の指揮官は白騎士団第二部隊長のマリエル様なんだけど。わざわざ私に会いに来る必要なんて、いや、必要はないだろうにね?」
信頼する補佐官との会話だと、ついくだけた口調になるのを、自戒して言い直す。
「家族が元気になったとの報告ではありませんか?かなり案じていたようですからご連絡だけはということで」
現場に同行したラリーが言う。
「うーん、まぁいいか。その程度だったら気分転換に会いに行って……も、いいかな、ユリアス?」
朝からずっと机にはりついていた体を伸ばすようにして、問いかける若い上官に、いけませんとは言えない筆頭補佐は、はいはい、というように軽く頷いた。

連絡が行き、赤騎士団の位階者が使う応接室の一つに通された宿屋の主人は、あの夜も同行した補佐官の一人を連れて入室した美貌の第五隊長を迎えるべくすぐに席を立って、しゃちほこばった礼を捧げた。
「カミュー様のおかげをもちまして、娘にも孫にもこれといった後遺症はなく、しばらく寝込んだあとで今はすっかり元気を取り戻しております」
「そう。それはよかった。小さな子供がいると大変だろうけど、これからも頑張って育ててるようにと伝えてほしい。火災の後はどう?」
「は、ありがたいことに、近所のみなが手を貸してくれまして……、近いうちには営業を再開できるかと」
「そうか、それはよかった。食事ができるようならそのうち一度伺わせてもらうよ」
「はい、ぜひ!カミュー様。あの、それで……」
とエマヌエルは少しくちごもりながら、ささやかではあるがお礼をと、美しい紙に包まれた菓子折のようなものと、その上の封筒をを差し出してきた。過去に聞いた事例からすると、なにがしかの金券のようなものと推察された。

「こういうことは必要ないです。領民を守るのが騎士の仕事ですから」
「で、ですがカミュー様!私の娘と孫とを助け出してくださいました。あの時、もしカミュー様の応援部隊がいらっしゃらなかったら……」
「ですが、家に入って娘御をお助けすることを許可してくださったのは、現場の指揮官殿です」
「はぁ」
エマヌエルには、消火活動においても離れた場所で部下に指示を出すだけだった白騎士があまり頼りにはならないように思えていた。助けを求めたとしても、火の消えたばかりの室内に足を踏み入れてくれる様子はまるでなかったし、ましてや二階へ、部下の一人にしろ上がらせて家族を救ってくれるとは――。
「騎士団には現場ごとの持ち場があります。そしてなにか変事があれば、その部隊が責任をとるのです。あの日の担当部署は白騎士団第二部隊。部隊長はマリエル様とおっしゃいます」
カミューは穏やかに諭した。
「もしマリエル様に面会を希望なさるなら、お手数ですが正面入り口でもう一度申請をしてください。こちらからお話を回しては、順番が違うとお気を悪くされるかもしれませんからね。わかりにくいようなら、誰かを……」
「あの、どうしてもカミュー様には受け取っていただけませんでしょうか?」
「えぇ、礼物などは。私は救援要請があってあの場に赴いただけですから」
にこやかに言って、カミューは席を立った。追いすがるように腰をあげたエマヌエルに、ユリアスが部下を呼び、正面へと送るよう指示をだす。
がっくりと肩を落として去って行く旅宿の主を見送りながら、カミューは仕方ないよね、とばかりに肩をすくめて見せたのだった。

+++

火災を起こしたことを詫び、無事に家族を助け出してくれた謝礼に訪れた宿屋の主エマヌエルを上手に説得して、現場指揮官であった白騎士団第二部隊長のもとへと回してより数日、今度はそのマリエルからカミューに連絡があった。
過日の救出の判断がとても見事であったこと、本来ならばすぐにでも協力への感謝を伝えたかったが、なにかと取り紛れて日が過ぎたことを詫びながら、よければ明日の昼食を共に……というものであった。士官食堂の個室を押さえておくから、昼少し過ぎに時間があれば執務室へ寄ってもらいたいとの言づてである。
「行かなきゃだめかな?」
あまり乗り気ではない様子のカミューに、忠実無比なる筆頭補佐官ユリアスが、励ますように声をかけた。
「他団と良好なコミュニケーションを取るのは、将来のことを考えられる上でも重要でございましょう。いまはさほどお仕事もたてこんではおりませぬゆえ、いまのうちにお話をすませられ、早めにもどられればよろしいかと」
「そうか。うん、そうだね。レオンもコーレル様の視察について出ているし、他の用が入らないうちに、というのはありかな」
「はい。では明日のご予定は午前と、午後は三時以降に……」
「頼むよ」

補佐官とのそんな会話が交わされた翌日、午前の執務を終えたカミューは浴室で身なりを整え、白絹の手袋を新しくおろしたてのものに換えて、赤騎士団が使う西棟をあとにした。文官や研究者の多い白騎士は、外部からの有識者を招いての作業もあることから、主翼の下層階を主に使っている。位階者の為の食堂の個室へ行くならば、西棟の上にある渡り廊下を通れば近道ではあったが、執務室で会おうと言われては、一度本棟へ降りなければならなかった。磨き抜かれた石の廊下を、まっすぐに姿勢をただして歩を進めるまだ若い騎士隊長の姿は、所々に立つ張り番の騎士たちや、まれにすれちがう一般領民の視線を釘付けにした。

出迎えた従卒の少年に通されたマリエルの執務室に付属する応接室には、重厚な樫材の書棚が壁の一面を埋め尽くし、そこには多くの美術書や歴史書、今なおその名を外交史に刻んだ政治家や外交官の伝記といった書がびっしりと納められていた。
「へぇ……」
主の許可なしに勝手に読むことは憚られたが、それらは読書を好むカミューにとってとても興味を惹かれるものであった。マリエルは前の来客との話が長引いているらしい、彼はつとソファーから立ち上がり、ずらりと並んだ本の背表紙を眺め始めた。

「遅くなってすまな……、なにを見ているのだね?」
不意に声がかかり、三つ目の書棚を眺めていたカミューは、びくりと肩を揺らした。案内された時に通った重厚な扉が開く気配はなかったが、これだけ厚い絨毯が敷き詰められているのなら、足音がしないのは理解ができる。
「あ、これは、マリエル様……失礼を」
「面白い本でもあったかな?」
「申し訳ありません、許可も頂かずに……。ただあまりにすばらしい書物ばかりだったのでつい」
「そうか、カミュー。君は本が好きかね」
「えぇ。剣での戦いや乗馬は実地の訓練が何よりですが、兵法や外交については過去の実例を読んで学ぶのが一番かと――」
「若いわりにはよく考えているようだな。何才になる?」
「はい、少し前に十八に」
それを聞いてマリエルは一瞬、想像以上の若さに驚いた様子だったが、軽く咳払いをして席を勧めた。
「士官食堂の部屋でもよいが、もし本が好きだというなら、ここで食事にしようか」
「は?」
「それほど正式なものではない、ごく軽い昼餐を注文してあるのだ。君が構わないというなら、色々話をしながらここで食べるのもいいかと」
「――お任せいたします」
丁寧に頭を下げ、招待してくれた主の意のままにといった態度にでたカミューを満足そうに見つめたマリエルは、扉の外に控えていた従者を呼び、注文した食事をこちらの部屋に運ばせるように命じた。その態度は公会議貴族まではいかなくとも、他人に命令することに慣れた上流家庭の家の出自を窺わせるものであった。

さまざまな具材を載せたオープンサンドに、つまみやすくアレンジされた野菜やナッツ、そしてたっぷりと添えられたフルーツボードを、まだ勤務時間中ということで、薫り高い紅茶とともに食した間、二人の会話はもっぱらに古典や小説、最近話題になった舞台などの、任務とは直接関係のない話題に終始した。どのような話題にもそつなく応じる若い騎士を、マリエルは非常に満足した面持ちで見つめ続けた。さて食後に、これくらいならなんの問題もなかろうと、マリエルは秘蔵品だという上等のポルトワインのボトルを取り出し、別に用意されていた数種類のチーズを添えてテーブルに供した。

「そういえば、先日の火災の件だが……」
「は…」
「あのときの宿屋の主だが、君のところには来たのか? あの場では、ずいぶんと君に感謝していたようだが」
「はい。面談の要請はあったと記憶します。ただ、あの場の指揮官はマリエル様でいらしたので、私に礼を言うのは筋違いだろうと答えて帰したかと」
「実際に、彼の娘と孫を救い出したのは君だろう。礼を断るのはおかしくはないか」
「筋を申し上げるなら、礼を受けるべきは現場の指揮を執られていたマリエル様であると思います」
「ほう……」
マリエルは驚いたとも感じいったともいえない不思議な笑みを浮かべてカミューを見ている。
「なかなか、世の中の理<ことわり>というものを心得ているようだな、君は」
「恐縮です」
「君に諭されたゆえか、あの男、私の所にも礼物を持参して面談に訪れた。貴官のことをたいそう褒めておったぞ」
「マリエル様の的確なご指示あってのこと。これからもどうぞご指導ください」
カミューは決して権力者におもねる性質ではなかったが、複雑な家庭事情で育ってきたこともあって、相手を不快にさせない話術には長けていた。

それがこの先におこる面倒事の端緒になるとも思わなかったのは、彼のいまだ十八才という経験の不足によるものだったのかもしれない――。

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