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一.帝国暦489年7月21日

悪夢―――そうかも知れないし、そうでないかも知れない。夢ではなくて、現実の光景の再現だった。

帝都南西に位置するリゾート地ラキェンテス。そのラキェンテスからフロイデンにつながる山林地帯。ラキェンテスの水源カージタス湖<ゼー・カージタス>の畔<ほとり>は靄の中だった。夜半以来から降り続いた驟雨の名残雨が降り続く中、気温も急激に下がっていたのだ。
ゲルタはそこにいた。
それまで、わたしはゲルタとは面識がなかった。でも、一目見た瞬間、彼女がゲルタに他ならないことを確信していた。
背の高い、燃えるような金茶色の髪、おとぎ話に出てくる妖精のような、細面で端麗な顔立ち。彼女がまとっていたのは園遊会用のドレスでもなかったし、西苑女官長府用のスーツでもなかった。
黒い戦闘服<コンバット・スーツ>。その右手には刀<ザムライクリンケ>のような長い戦闘ナイフが握られていて、そして、彼女はまっすぐにローエングラム公を見詰めていた。
「そこをどけ、シュミットバウアー」
ローエングラム公が怒って、それも半端な怒り方ではない。この方を本気で怒らせてただで済むはずはないのだ。
わたしは、何度か、ローエングラム公の怒りを買いかけた。失敗してのことではない。敢えて、不興を買うように行動し、直言したのだ。もちろん、中途半端な覚悟ではダメだ。真っ正面から公の怒りを受け止めて、はじき返せる―――ちょっと違う気がする。弾き返すのではなくて、怒るべきことではないと気づいてもらうと言った方が良いかも知れない。そういう覚悟と用意がなかったら、公に一言吼えられた瞬間、わたしでも部屋から逃げ出してしまうかも知れない。
初めてあった瞬間、わたしは不思議に思ったのだ。どうして、この方は帝冠を戴いておられないのか、と。阿りでもないし、追従するつもりもない。金髪がそう見えたというのでもない。この人は帝王なのだ、と、ごく自然にそう思ったのだ。この人が、わたしたちを、まったく新しい帝国へ導いていってくれるだろうと、あの瞬間、わたしはそう確信したのだから。そうして、訪ねる前に抱いていたローエングラム公、その時はまだ侯爵だったけれども―――公に対する考えが間違ったものでないことを確認できたのだ。
ゲルタ―――制止の声をかけようとして、彼女の声が、わたしの咽喉を凍らせた。
「私を殺してから」
ゲルタは言葉を無駄にしない女<ひと>だ。わたしとのやり取りでも、無駄なことはほとんどしゃべらない。豊かで綺麗なアルトの声は、一言一言に思いを巡らせながら発していることがよく分かった。音声<ボイス>メールをやり取りしたことは数えるほどだったけれども。
違う人の声かと思った。
同じ名前の、まったく違う人物を、わたしは前にしているのかと一瞬思ったほどだった。
小説では、氷のような声とか、感情を完全に欠いた声だとか言った表現をよく見掛ける。この時のゲルタの声はそうではなかった。
「私を殺し、あなたの姉と親友をお救いなさいな。でも、私を殺さないでは助けさせない」
確かに彼女の声だった。冷たくもなく、感情のないのっぺらぼうな声でもない。ごく普通の普段通りだろう声。そう、彼女はローエングラム公と戦うことに何の躊躇いも惑いも抱いていなかった。
その瞬間、やっぱりゲルタだ―――わたしは確信すると同時に、もう一度、叫ぼうとして前に踏み出していた。もう止めてください。あなたほどの女<ひと>が、どうしてこんなことをするんですか。ローエングラム公に従うという選択は、あなたならできるはずです―――と。
「貴様、正気で言っているなら、正気でいることを後悔させてやるぞ」
ローエングラム公が叫び、銃を引き抜いた時、わたしは見た。ゲルタが微笑むのを。
「ゼッフル粒子です、閣下!」
シュトライト准将の叫び声が耳に入った時、わたしには分かった。強がっているのでもないし、無理をしているのでもない。まして、楽しんでいるのでもない。彼女にとってどうしても為さねばならないことを、ただ為そうとしているのだ―――と。
もどかしかった。
今の帝国はもう駄目なのだ。五〇〇年も続いたゴールデンバウム王朝だけれども、もうどうにもならないのだ。ここでローエングラム公個人を倒したところで、何も起こりはしないのだ。門閥貴族を倒し、ゴールデンバウムの皇帝から実権を奪うことで、やっと再建の途についたばかりの帝国。その帝国がまた手のつけられない動乱のただ中に突き落とされてしまう。
わたしには分かったのだ。ゲルタにはそれも分かっている。彼女の声、表情、態度すべてがそれを現していた。分かっていてなお、彼女はローエングラム公に戦いを挑んでいる。
シュトライト准将が、ローエングラム公の右手に戦闘ナイフを握らせる。
「―――?」
公の左手がすっと伸びて、わたしの肩を軽く押す。押されて、半歩下がってから、公の意図が分かった。
ここへ来るヘリの中で公は私に言ったのだ。『仮にあなたが知り合いだったとしても、あの女は必要があればあなたの生命をも狙うだろう』。
そう―――
わたしが公と彼女の間に飛び出して制止しようとしても、ゲルタは意にも介さない。わたしを楯にするか、それともあっさりとナイフを揮ってわたしの生命を奪うかするに違いない。馬鹿なことは考えず、後ろに下がっていろ……というか、下がっていてくれ。
公の左手の動きがそんな風に語りかけてきているような気がして、わたしはそれ以上、何も言えず、何もできないままにすべてが終わるのを、ただ呆然と見詰めていたのだ。
そして―――
「爆弾だ―――T」
キルヒアイス提督の叫び。
とりあえずはこんな書き出しで、ヒルダ視点の『木漏れ日と遠き日』の一シーンを

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