魅入られた、としか言いようがなかった。
一〇歳になるまで、彼はスポーツは万能、学校の成績も優等生の端っこに連なるだけの実力もあり、両親のいる自宅を他のいずれよりも居心地の良い場所と思っている、ごく普通の市井の少年だった。放課後のサッカーで、『ちゃんと四五分闘ってれば、ハットトリック間違いなし』の大活躍。その後、家路の途中で子猫を苛めている上級生のスネに思いっきり蹴りを入れて顔を排水溝に突っ込ませ、一目散に逃げ去る先は暖かな灯のともった自宅だった。 帰り着いて玄関のドアを開けると、夕食の匂いが鼻腔一杯に広がり、エネルギーを使い切った身体はたちまち空腹を訴える賑やかな音楽を奏で始める。 「お腹減ったぁ! 今日のご飯何?」 「先に服を着替えて、手を洗ってきなさい。今日は宿題はないの?」 「ご飯の後でするよ。ねぇ、ご飯何?」 敢えて帝国とは言わない。彼らから数千光年も離れた宙域を根拠地とする、彼ら家族を『敵』と呼び、その『根絶やし』を叫ぶ指導者を頂いた『叛徒』たち…『自由惑星同盟』などという僭称が、彼らの元まで届くことなど滅多になかった…の版図でも、無数の家庭が同じような夕暮れを迎えていた。敢えて数えるならば、その数は数億から数十億にも達しただろう、極めてありふれた家族の団欒を途切れさせたのは、あの時からだった。 隣家に越してきた貧しげな家族。その家族の家長は、帝国貴族を名乗る貴族だなどというのが信じられないような、うらぶれて、饐えたアルコール臭を全身にまとわりつかせていたのだが、挨拶にも来なかったので、少年の両親の目に触れることはついぞなかった。 代わりに、その家族の子供たち…背に白い羽を隠していないことが信じられないほどの美しい姉弟を目にしたとき、少年の両親は、ある予感を抱かずにいられなかった。この姉弟が、我が子を連れて行くに違いない、と。 「あまりミューゼルさんところの子供たちと遊ばせない方が良いかしらね」 「どうして?」 裏付けのない不安を訴える妻に、夫は不審の眉を顰めるしかなかった。 「良い子たちじゃないか。ちょっと弟の方は乱暴なところもあるようだが、うちの子も大人しいばっかりじゃない」 「それは……そうだけれどねぇ」 それを運命と呼ぶのかどうか。運命と呼ばれた金髪の少年は激しく反発したに違いない。運命という言葉の象徴する意味と、彼の信じるところとは決して相容れるところはあり得なかったのだから。 理屈でもなれば、整然とした理論ですらない。それを確かに見ることのできるのは、あるいは母親以外にないのかもしれなかった。母親自身、自分の抱いている不安のよって来たるところを決して言葉にして説明することはできなかったのだから。 選ぶのかも知れないし、与えられたものを所与のものとして受け入れるのかも知れない。 子供たちがそうして自分の『人生』を自ら選び取っていく、あるいは知らぬ内にその道に歩み行っていく、そんな瞬間が必ずあり、その瞬間を既に我が子が迎え入れたことを悟っていたのは、確かに少年の母だけだった。 |
ジークフリード・キルヒアイスが、その少年期の家庭において疎外された存在であったことを示す、いかなる証拠も存在しない。彼は、当時の帝国においてごくありふれた中流…よりもやや下だったかもしれないが…家庭に生まれ育った、見事なまでに『普通の少年』だった。彼を、その半身とまで見なすようになる、彼の親友…ローエングラム王朝初代皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラムに比較すれば、一〇歳までの人生の軌跡と、彼らが出会ってからのそれとの落差の巨大さは、それを観察するものをして呆然とさせるに十分なものだった。 驚くべきことは、そういったごく普通の、そして特に彼を疎外する要素のかけらもみられない暖かな家庭で育ったはずのジークフリード・キルヒアイスが、一〇歳で彼の『半身』とともに旅立ってから以降、その家庭を個人として訪れた回数の極度の少なさである。 |