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一.同盟軍士官学校

明治13年の日本海軍総兵力は約4.5万人。対して明治13年・日本海軍兵学校第七期卒業生は30名だという。実に1500名に対して1名の卒業生ということになる。時代が下って、昭和14年第六七期は248名。8倍になっているが、明治13年と昭和14年では日本海軍の規模そのものがまるで違っているはずである。昭和17年のミッドウェーでは参加兵力10万という説もあり、常備兵員としては少なくとも10倍にはなっていたと推定する(外れるかも知れないが)。いずれにしても、一期当たりの士官候補生は兵員1000人に対して1名前後だったことになる。この数字は、実は余裕のない数字であり、予備士官を十分に持てなかった旧海軍は、長期戦に際してはたちまち士官不足に陥ったようだ。

同盟軍の総兵員数はどの程度だろうか? 以前、帝国軍で同様の議論をしている。戦闘艦艇搭乗員数が約3000万人。後方支援要員を含めた総数は、軽く見積もってもその四〜五倍として、1.2億から1.5億人。同盟総人口120億に対して、1〜1.3パーセント。

現在の中華人民共和国の総兵員数は約200〜250万人程度だと言う。人口13億に対して、0.2パーセント内外であり、これに比較すると1パーセント強という動員比率は比率は決して低いものではないし、むしろ国家の財政が破綻しない水準の上限に近いとも言える。一方、帝国は人口で250億。同盟の倍であり、常備兵力がほぼ同じレベルならその比率は、同盟の半分となる(ただし、貴族の私兵はカウントしていないが)。帝国が女性を前線へ出さなかったのに対して、同盟が積極的に女性兵を前線に登用せざるを得なかったわけである。昭和20年時点での日本の陸海軍兵力は総人口の10パーセントを軽く上回っていたようで、これは破綻した数字と言うしかない。

で、士官学校だが、1億人に対して1000対1の比率を適用すると、何と10万人という数字が出てくる。戦闘艦艇部隊に限定しても3万人である。これは学校ではない。一つの都市である。無論、一つの都市が丸々士官学校都市であり、一期10万人、4年で40万人強の学生と、同じく十数万人の教官やスタッフが生活している巨大士官学校を想定するのはなかなか面白い。だが、その場合、ヤンやアッテンボローが寮を抜け出して外へ遊びに出ていたという原作の記述には疑問符が付いてしまう。そうした、軍の統制下にある士官学校都市に、彼が遊びに出る先や、あるいは青少年期の食欲を満たすような安くて美味い屋台などがあったのだろうかという疑問が起きるためだ。または、士官学校を設立した同盟軍の先人達は、そうした息抜きの場を許容するほど、気の利いた人々だったのだろうか。まあ、それも面白い。例えば、リン・パオあたりが士官学校都市の設計に顧問として携わっていたなどと考えれば。ユースフ・トパロゥルが関わっていたりしたら、ヤンなどは窒息してしまったかも知れないが。

後方支援部隊は民間へのアウトソーシング等が積極的に行われていたとしても、そのアウトソーシングを行う民間企業のスタッフはやはり戦闘の経験者とならざるを得ない。ゆえに、同盟と言い帝国と言い、士官学校や幼年学校が一つであったはずはなく、その宙域内に多くの分校があったと想定するのは必然的なものだと思う。

普通の大学のように、キャンパスに教室と教官を置いて、学生に勝手に学ばせるというやり方でまともな士官が育つわけはないから、当然全寮生活、多数の教官が隅々にまで目を光らせる教育環境に違いないとすれば、一期数千人というのは無理があって、やはり数百から精々千人程度が妥当ではないか。千人としても、士官学校分校は100校はあったことになる。
この想定に基づき、敢えて『士官学校首都校』の用語を使う。しかし、戦争のための準備もなかなか大変と言うことである。

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