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距離の暴虐と距離の防壁

バーラトの和約からラインハルト戴冠までの時間的矛盾について
銀英伝ハンドブックでは宇宙暦七九九年、帝国暦四九〇年五月五日にバーミリオン会戦が終了し、同月一二日にハイネセン入り、更に二五日にバーラトの和約が結ばれ、二六日にトリューニヒトの面会申し込みをラインハルトが拒絶している。少なくとも、この時期までラインハルトはハイネセンにいたことになる。一二日のハイネセン入りから和約締結までの二週間弱は、講和条約の協議……と言っても、同盟は帝国の提示した条約案を無条件で呑むしかなかっただろうから、決して短すぎる時間というわけでもない。
さて、ラインハルト戴冠である。ハンドブックでは六月二二日のことになっている。原作風雲編では新無憂宮の『黒真珠の間』で自ら帝冠を戴いたとあるから、これは帝都<オーディン>でのできごとである。無論、この日、ラインハルトが帝都に足を下ろしたはずはないので、この数日前には凱旋していたはずである。六月二〇日にカザリン・ケートヘン女帝の退位が決定されているので、おそくともこの日までにはラインハルトは帝都にいた、と仮定してもよいだろう。
ここで矛盾となるのは、五月二六日にハイネセンにいたラインハルトが、その三週間後には帝都に帰り着いていたことである。神々の黄昏作戦序段、ミッターマイヤーは帝国暦四九〇年一月一日にフェザーンを出発、帝国軍がポレヴィト星域に集結したのは三〇日後の一月三〇日。この間、同盟軍の抵抗は受けておらず、ミッターマイヤーはさらに先行してポレヴィト星域に達していたとしても、二週間以上の日程を要したと考えて無理はない。
ヤンが査問会を受けたときも、イゼルローン要塞とハイネセンは片道四週間近い航程だった。実際、宇宙暦七九八年年四月一〇日に査問会が中止され、その翌日にハイネセンを発したヤンがイゼルローン要塞周辺に達したのは五月に入ってからとなっている。ラインハルトは、どうやって、三週間でハイネセンから帝都まで達したのだろうか。
同盟の降伏で障害がなくなり、全速航行が可能になった……としても、たとえば帝都からイゼルローン要塞、ハイネセンからイゼルローン要塞は、これまでもそれぞれ帝国と同盟の領域内であり、戦闘航行を考える必要もなかったはずだから、ヤンは一〇日ほどでハイネセンからイゼルローンへ戻れたのではなかったか、ということになる。
これはもう、原作者……『正史』の記録者……の記録ミスと解釈する以外にあまり選択肢がなさそうである。ラインハルトの戴冠が六月二二日ではなくて、七月二二日であったとしても、銀英伝そのもののストーリーにはほとんど影響はないわけだから、原作者が何かしらの思い違いをしてしまった。銀英伝原作を『正史』として位置づけると、『正史』編纂者が参照した記録なり、資料に誤りがあった、じつは『正史』が編纂されたのはラインハルト死後半世紀が経過してからであり、玉石混淆の膨大な伝説の時代の記録の中に、そうした誤りを引き起こすようなものが紛れ込んでいた、などとこじつけると、いかにももっともらしい。
ただ、黎明編でのアムリッツアからの帝都帰還までの時間でも同様の矛盾があったことをかんがえると、実はオーディンはイゼルローン回廊のすぐそばにあり、ほんの数日の航行でたどり着けるというのが真実なのかも知れない。では帝国領侵攻作戦で一ヶ月も帝国領内をうろつきながら、ついにオーディンを直撃できなかった同盟軍はよほどの方向音痴ということになるが……?
ラインハルトのことであるから、帝都に帰り着いてからのんびりと戴冠の準備を進める、などということはなく、帰路につきつつも部下に指示して準備を進めさせた。『ゴールデンバウム王朝の前例』に拘る典礼省の官僚を、『わたしはゴールデンバウム王朝を嗣ぐのではない、ローエングラム王朝を始めるのだ。前例を言うなら、わたしの戴冠がローエングラム王朝の前例となるべきだろう』などと一蹴して自分なりの(簡素な)戴冠式とさせた、といったエピソードがあっても良い。
で、猫版銀英伝。すでにもう十分原作から離れてしまっていて、これ以上先に進むと、二次創作というスタンスを守れなくなってしまうのではないかと危惧しないではない。ともかくも『バーミリオン、遙かなり』の後をいくらかでも続けるなら、ラインハルトの帝都帰還にはすくなくとも五〜六週間程度は要したものということにしたいと思う。

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